あの日のこと思い出すために、久しぶりに当時の学級通信を開いた。
建築科2年の担任をしている時だった。
3年間クラス替えもなく、担任は3年間持ちあがりで、生徒にとっても自分にとっても初めての特異で貴重な3年間だった。
クラスの生徒たちは、東は西宮、西は高砂、北は有野台、と広範囲から登校してきていたので、全員の安否が確認できるまでに5日もかかった。
携帯電話はまだ普及する時代ではなく、生徒たちはポケベルを友達との連絡に使っている、そんな時代だった。
地震から10日あまり過ぎた1月26日が地震後初めての登校日となった。

当日配布したプリントには次のようなことが書かれてある。
○本日すべき事
1)担任に安否を伝える事
2)このプリントを持ちかえる事
3)アンケートに答える事
4)転居、転校などを考えている人は、担任に相談する事
5)友人の情報があったら伝える事
6)ただちに下校する事(部活、寄り道はしない)
○通学時について
1)安全第一(落下物、倒壊があるものとして通行する)
2)危険回避(危険な場所に立ち寄らないようにする)
3)譲り合い(交通機関が混雑しているので可能な限り徒歩で通学する)
板宿より約1時間、須磨より約2時間、三宮より約1時間
○家に帰ったら(勉強はもちろんそれ以外にもすることがあります)
1)家族の絆を深める(大いに手伝いをする)
2)ボランティア活動への参加
3)教科書、教材の確認
4)健康管理
5)非常時といえど、県工生として常識ある行動を心がける

奇跡的に全校生徒や保護者の方々で亡くなった人はなかったけれど、クラスの40人中、家屋が全壊のもの4軒、半壊のもの8軒、一部損壊のもの10軒、減収の見込みありは21軒にものぼった。
この日、登校できた27人に学級通信の原稿を書かせた。住んでいる場所によって衝撃の度合いに差はあるけれど、それぞれの恐怖と怒りが入り混ざったような文章ばかりだった。
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<鈴木の原稿>
わたしはその瞬間、寝ぼけていて立ってしまった。
でも、ものすごい揺れで、全然立てずに、ドアにぶつかってしまった。
それで、ドアの取っ手の所をつかんで必死でお母さんの寝ている部屋に行こうとした。
一瞬、夢かと思った。
お母さんはもう死んだのかと思ったくらい、タンスの倒れた所に埋もれていた。
ゆれている中、わたしはこたつの中にかくれてお母さんを呼んだ。
そしたら、
「じっとしときなさい。布団きてっ!!」
と、言ってたけど、何か心配だったので走ってお母さんの布団にもぐっていた。
ゆれが収まってから玄関に行くと、ドアが曲がって開かなくなっていた。
そして、男の人達がみんなの家のドアをハンマーみたいなので開けていた。
でも、わたしの家は廊下側の部屋の柵を壊してもらってやっと窓から出入りできる状態になった。
それからすっごい怖かった。昼頃から部屋を片づけて、電気がつくようになった。
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生きている間は、もうあんな大きな地震が神戸にはこないだろう、とどこかで自分はたかをくくっている。
そして、もし和歌山沖で南海地震が起こったらと想像した時、きちんとしたイメージを持つことができないでもいる。
揺れは17年前より小さいだろう、標高の高い妙法寺に住んでいるので津波も来るはずはないだろうと、あくまでも人ごとのような捉え方でいるのだ。
次に大きな地震が起こった瞬間、何をどうすればいいのか具体的なイメージは今現在何もない。
壮絶な体験を一度すると、それ以上悲惨なものが自分には起こりえないだろうと考えているからなのかもしれない。
「チリ津波も体験しているから大丈夫です。また再建しましょう」と東日本大震災から数日後救出されたおじいさんが、向けられたマイクの前で話していた。「経験」とは一体何なのだろうか。
1・17の日にそんなことを考えている。
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<文集より思い出したこと>
阪神淡路大震災の当日昼前、停電の街を空から落ちてくる灰をよけながら、開いている店がないかとJR塩屋駅の方へ歩いていた。
コープの店頭に人が並んでいた。
「レジが使えませんので、マジックを渡しますから値段を見て、自分で値段を書いてレジに持ってきて下さい」
と店長らしき人が大きな声で伝えていた。
5名ずつくらい店内に入る人数を制限していたため、入るまでに2、30分並び、選んだのは乾電池とチョコレートとポテトチップスだった。
店長らしき人のいうとおり、陳列棚に書かれた値段を見て、手渡されたマジックで一つ一つに値段を書いてレジに並んだ。
レジの人は電卓で計算し、私はお金を払った。
塩屋のコープ付近では火災もなく、倒壊している所もなかった。
山一つ隔てた須磨、長田では火災と家屋の倒壊で大混乱だったけれど、とても静かな店内だった。