中に浮く原稿①

もう、かれこれ、3年も前になるのかもしれないけれど、国際協力について青年海外協力隊経験者の文章も込みの新書を出すので、と正ちゃんから原稿依頼を受けた。

時間を作って、いろいろ考えながら推敲を重ね、ようやく出来上がったものが、いよいよ来月発刊かという最後の段階になって、「諸事情を鑑みて、今回の発行は見送らせて頂きます」と、いう連絡が出版社からきた。

今朝、通勤ランで走っているとき、ふと、「岡本先生の話は何に書いたんだっけ・・」と気になり、いろいろ探すと、その原稿だったことに行きついた。

もう、日の目を見ることはないと思うので、ここにメモしておく。

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第一章ネパールとの出会い

暗がりの中で見たヒマラヤの人

カーテンの引かれた薄暗い生物教室で、岡本先生が簡単な説明を加えながら一枚ずつめくっていくスライド写真を、わたしは不思議な気分で眺めていた。スライド写真には授業で見る表情とは明らかに違う、旅塵に薄汚れてはいても晴れやかで和やかな顔の岡本先生が、トピーと呼ばれるネパールの帽子を頭に乗せネパール人シェルパと肩を組んで写り、ヒマラヤのどこかの場所からカメラを通して視線をわたしに向けていた。

わたしが高校二年の秋のことだったと覚えている。山岳部顧問の岡本先生が、長期の休みの間に訪れたネパール・ヒマラヤで撮ってきた写真をスライドにして、生物の時間にわざわざわたしたち生徒に見せてくれたのだった。どっちがネパール人かわからないな、と友人と話しながらも、わたしは、スライドの中で岡本先生がこちらに投げかけている視線があまりにもやわらかく、ネパール人のまなざしと似ていることに驚き、初めて外国と自分との接点を感じていたのだった。

わたしが写真やテレビでしか知らないヒマラヤの景色の中に、目の前にいる先生がまるでネパール人のようにとけこんでいる。普段あまり口数も多くなく、どちらかというと学者肌で授業をすすめていく岡本先生が、ネパール人とネパール語で話し、肩まで組んでしまう変わりぶりに、ネパールやヒマラヤのもつ目に見えない「力」というものさえ認めざるを得なかった。わたしは十七歳になって初めて、外国は夢の中の世界ではなく、現実として存在している、と岡本先生によって気づかされたのだった。

高校在学中、岡本先生はその後もわたしたちにいくどとなくネパールの魅力を語り、わたしは次第に、岡本先生の代わりに自分がネパール人と肩を組むことだってありなんだな、という気にもなっていっていた。

カトマンズの友人達

「反町ジー(ネパール語で○○さんの意味)、大丈夫なのか?」、たずねた反町ジー(職種・数学教師)の白眼は赤黒く濁っていた。
「大丈夫、大丈夫。日本で風邪ひいたようなもんだから」、反町ジーのこたえは簡潔で、そばにいた康孝ジー(職種・電話工事)が、いま、赤痢なんだよ、とあっけなく何事もないかのようにわたしに教えてくれた。いくらそう簡単に言われてもモルディブにはない伝染性の病気で、わたしは一年ぶりの再会とはいえ反町ジーときちんと握手をすることができなかった。

ネパール・カトマンズ空港にわたしを出迎えに来てくれた協力隊同期の隊員は七名。ちょうどネパールの雨季が終わろうとする一九八九年の七月のことであった。わたしがモルディブで青年海外協力隊員として一九八八年夏から二年間の予定で活動中のとき、ネパールに行くから、と手紙を送ると、わざわざ休みをあわせてまで集まってくれていたのだった。

わたしが兵庫県立神戸高等学校に在職中、派遣職員という形で青年海外協力隊に参加したのは、教職について五年経った時であった。
大学時代、陸上の十種競技を専門種目として打ち込んでいたわたしは、卒業後すぐ、運よく教員採用試験に合格し、兵庫県の高校保健体育科教員として、小学校の頃から夢見ていた教育現場で働くことになった。勤務校の生徒たちと過ごす時間は想像していた以上に充実し、新米高校教師としての悩みを抱えながらも、放課後のグラウンドで陸上競技部の生徒たちとともに練習することで、心の均衡はうまく保てていた。現役で続けていた十種競技の成績は、年々下降していってはいたけれど、顧問をする陸上競技部の戦績は順調に伸び、高校の体育教師になりたい、と決断した頃夢見た映像の中に、自分自身が立っている気がしていた。

協力隊への第一歩

「モルディブで陸上競技の指導者を募集してますけど、受けてみませんか?」
スリランカでの三年間の青年海外協力隊活動を終え帰国した、大学時代の陸上競技部の後輩がわたしに電話をかけてきた。

スリランカでの協力隊活動中、彼は新米教師のわたしにたびたびエアメール(1)を送ってきてくれていた。そのカードの中には、学校現場であまり教えることのない、「日本は」、「日本人として」、「世界は」、「途上国は」、「スリランカの人たちは」、といった内容がいつも書かれていて、最後に「自分自身は」、というところに彼の思考は行き着くのだった。彼が帰国後、採用試験を受け、高校の教師になったならば、今の自分の追体験はできるのだろうけれど、自分には彼の追体験はできないのだな、と高校教師という仕事に慣れるのが精いっぱいのわたしは漠然と考えていた。

彼がスリランカで考えたことを、教師になり高校生に伝える姿は容易に想像がつくけれど、自分は今のままでは決して彼のような気持ちで高校生に働きかけをすることはできないのだ、それでもいいのか、という自問自答を繰り返しながら。
(1)航空郵便のことで、当時、電子メールは存在していなかった。

しかし働きだして五年経つ頃、教師という職業に慣れていくにしたがい、わたしには彼の電話での一言を、自分の背中を押してくれるきっかけとして受け入れられるだけの心の準備が出来上がっていたのだと思う。数日後、わたしは校長室を訪問し、校長に自分の決意を告げた。

大学時代、隣の部屋で下宿していた彼から、「卒業したらアフリカに行きたいんです」と、聞かされ初めて知った青年海外協力隊。

派遣された国はアフリカではなかったけれど、彼がスリランカからエアメールを送り続けてくれた時間の経過とともに、高校時代、薄暗い生物教室で、ネパールの地からやわらかいまなざしでわたしを射ていた、岡本先生の「楽しいぞ」というささやきは、しだい次第に未知なる地への好奇心をあおってくれていたのだった。
卵が孵るとき、ひなが内側から叩くタイミングと親鳥が外からつつくタイミングとが合わさるのと同じように、わたしの中の青年海外協力隊は、はじめの第一歩を踏み出せたのだった。

生物教室で、ネパール人と写る岡本先生のスライドを見てから十年。わたしはスライドの中の風景にようやくたどり着いた。

第二章 モルディブで陸上競技を教える

競技会のない国

一周五㎞に満たないモルディブの首都マーレ島がわたしの二年間過ごした任地だった。一九八八年に開催されたソウルオリンピックに初めて参加するチャンスを得たモルディブは、日本の青年海外協力隊に指導者を求め、わたしはその初代隊員を引き継ぐ形で要請された。

当時人口約二十万人のモルディブ共和国は、一○○%イスラム教の、かつお漁業と観光業で生業を立てているインド洋の島嶼国で、赤道をはさんで一二○○もの島々が存在し、そのうち二○○の島で人々が暮らしていた。マーレ島は首都の島のため、あらゆる機関が集中していて、遠く地方の島から高等教育や職を求めてたくさんの人々が集まってきていた。その数は全人口の四分の一にも膨れ上がり、周囲五㎞の中に五万人強の人間が暮らす、世界でも類をみない人口過密島であった。

オリンピック出場のチャンスを得るまで、モルディブに陸上競技選手はいなかった。世界のスポーツ事情の通り、モルディブでの人気スポーツもサッカー一辺倒で、五㎞の島の中にクラブチームが十チームほど存在し、国営放送(テレビモルディブ)では、毎週末テレビで実況中継をおこない、スタジアムはいつも超満員になっていた。しかしながら、途上国にありがちな学校の教育課程に「体育」が科目として存在しないのはモルディブも同様で、ソウルオリンピックに出場した選手でさえ、「前回りを一度したあとでダッシュだ」、と告げると、マット運動をしたことがないため、背中を丸めることも、頭を地面につくこともできずにバタリと倒れてしまう。日本であれば、幼稚園の頃から遊びながら体で覚えていく運動能力も、学習の機会がなければ身につけることもできないことを実感した瞬間であった。

オリンピックに出場する陸上競技選手を急遽集めるため、モルディブオリンピック委員会は、足自慢集まれ、選考会で選ばれたら韓国のオリンピックに出場できるぞ、と新聞やラジオ、テレビで呼びかけをおこなった。集まってきたのはほとんどがサッカーの選手たちで、常日頃トレーニングを重ねている彼らは当然足も速く、選考会の結果、長距離選手以外はほとんどがサッカー選手で八名の選手団は構成されることになった。

モルディブにとっては初めてのオリンピック、それも日本の隣国である韓国での開催のため、わたしの前任者が日本企業に働きかけをした結果スポンサーが現れ、直前合宿と称して日本で合宿まですることができたモルディブチームは、百m、二百m、五千m、四百mリレー、マラソンにも出場し、記録的には世界の足元におよびもしなかったけれど、モルディブ陸上競技史に貴重な第一歩を記した。

ナショナルチームへの練習計画立案と指導、各種競技会の企画運営などがモルディブ側から出された協力隊員への要望事項だった。しかしながら、陸上競技場はなく、普段の練習場所でさえ公園を囲む約六百mの未舗装の周回道路だけという環境下で、活動への課題は当初から山積みであった。

夕方四時から約三時間の練習がわたしの活動のメインとなった。オリンピック後、その練習時間に集まってきたのは、オリンピック選手三名と、学生、そして小学生、あわせて十名にも満たなかった。大きなイベントの後、本当の意味で陸上競技に「楽しさ」を感じ、陸上競技に継続して取り組んでいく若者を育成することが隊員としてのわたしの命題となった。

任期前半・異文化を理解するには時間が必要になる。

宗教(イスラム教)に起因する人々の価値観をきちんと認識するには、人々と一緒に生活していく中から実感として理解することが多い。しかしながら、周囲が五㎞しかない島で五万人の人々が生活するという閉鎖性がもたらす人格への影響は、自分自身がマーレ島で生活する時間が長くなればなるほど自分自身にも現れはじめ、国民性の背景を理解する上で最も時間のかかった部分となった。

モルディブに派遣される前、事前訓練として三ヶ月間、言語を含めたあらゆる観点からの事前学習をおこなったにもかかわらず、日本人の自分と、隊員としてこうあるべきと考える自分とが心の中で大きく揺れ動きながらわたしは葛藤を続けていった。

一方で、陸上競技の指導自体にも壁にぶつかることが多かった。
陸上競技の選手として、陸上競技の本当の「楽しさ」を実感するために持っていなければならない必要条件がいくつかある。高い目的意識、目標達成のために障害を乗り越えようとする強い意志、そしてなによりも陸上競技そのものが好きだという気持ち。

雨が降れば、練習にやって来る選手の数は激減しわたしと選手一人だけ、ということもしばしばあった。また、きついけれどここで辛抱しなければ壁を越えられない、というタイミングにもかかわらず、いくらそう説明を加えても簡単にリタイアを続ける選手も数多く、日本で高校生に教えるのと同じように練習内容を考えても、計画通りに進めていくことはままならなかった。

競技場も、競技会すらも存在しないモルディブで、日本でやっていた「陸上競技」をこの国に定着させることは可能なのだろうかと考え続けながら、わたしの任期前半は静かに時間を経過していっていた。

そんなある日、モルディブ陸上競技選手権を実施するので手を貸してほしい、と協会の副会長アリ・マニク氏から相談をもちかけられた。オリンピックに初めて陸上競技で出場したモルディブ選手たちが、テレビや新聞で報道されたことも手伝って、国民の陸上競技に対する関心が高まったため、モルディブ陸上競技協会が内務省に働きかけ、以前行ったことのあるモルディブ選手権を実施する運びとなったのである。

モルディブのサッカーチームは、それ自体がひとつのスポーツクラブになっていて、卓球やバドミントン、バレーボールなども各クラブ対抗の形をとって選手権を時々行っていたため、陸上競技の選手権も同様の形で計画され、内務省スポーツ振興課から各クラブチームに要綱が発表された。開催は四日間、日差しのきつい時間帯を避け午前と午後の二部制で、種目は三千m障害、棒高跳、ハンマー投、十種競技以外はほとんどの種目を盛り込んだ。その上、タスキリレー「EKIDEN」も道路を使って実施することに決まった。ただし、参加は男子のみ。女性にはスポーツに親しむ習慣が男性以上に少ないイスラム教国モルディブにおいては仕方のないところであった。

するとそれをきっかけに、夕方の練習に参加する人間が増え始め、面白いようにその数は増加していった。その上、投てき選手が陸上競技クラブには一人もいなかったにもかかわらず、以前選手権を実施した頃に各クラブチームが独自に買い求めていた円盤や砲丸、やりなどを手にしてくる者も現れ始めたのだった。

また、大会役員には、タイム計測やゴールの着順判定という公正性が求められる部署に、中立的立場としてマーレ島で活動するほかの隊員にも協力をあおぎ、四日間審判を手伝ってもらうことにした。
小さな島の中で地域ごとに分けられているクラブチームの対抗戦は、村の運動会にも似て、始まる前からかなりの盛り上がりを示し始め、次第に島全体の大イベントになっていった。

島には唯一、サッカーやクリケットの試合だけに使用されているナショナルスタジアムがあり、その芝生の上に、白いペンキをスプレーして、二百mのトラックを作りあげていく。また、別の公園には穴を掘りサンゴの砕けた砂を入れて走幅跳や三段跳用の砂場をも作っていくのをみると、自前の競技会を作り上げていく別の意味での楽しさも感じることができた。

オリンピックに参加できたということが、ひとつの国にこれほどまでの効能、変化をもたらすことにつながったことをこのとき改めて実感した。

大会初日から、多くの観客がスタジアムを訪れ、モルディブ国旗をつけたオリンピックユニフォームで走る元オリンピック選手や、ひいきチームの選手たちに声援を送っていた。この間だけはいつもの陸上競技クラブのメンバーも各スポーツクラブの一員として大活躍し、表彰台の上でメダルを首から提げてもらうときに誇らしげな表情を見せていた。

早朝スタートで行ったモルディブ史上初めての「EKIDEN」は、警察のバイクが先導する中、各チームの応援バイクや自転車が選手の周りで併走し、スポンジや飲み物を手渡しながら大声で激励し続け、路上は喧騒にあふれかえっていた。

大きな盛り上がりをみせた閉会式の中、陸上競技協会長が大会の成功と、日本人スタッフに対して礼儀正しい謝辞を述べた。

わたしの任期前半の最も大きなターニングポイントとなった大会であった。

任期後半・新記録証の発行

任期後半は、海外での競技会に参加することが続いた。南アジア大会(パキスタン・イスラマバード)、イスラミックオリンピック(クウェート)、アジア陸上(インド・ニューデリー)と三大会が連続したため、マーレを二ヶ月近く留守にし、その間マ―レ島に残っている他のメンバーのため作っておいていった練習計画がうまく進んでいるかどうかを気にしながら過ごしていた。モルディブ選手権後も、陸上の練習に参加する人数は安定していて、短距離、長距離を中心に計画的、継続的に練習をこなすことができていたので余計に気になっていたのだった。

モルディブ選手権後、大盛況だったことを受けて、国立の女子校が陸上競技大会に似た運動会の開催を決め、その後も、私立の学校も含めた学校対抗陸上競技大会も催されることが決定していた。そのようなこともあって、学生たちの練習へのモチベーションは維持されていたのだった。

周囲五㎞の井の中の蛙が外に出ることは、それだけで大きな心の変化を促すことになる。外の世界を体験することは、自分を発見したり、見つめ直したり、その後の人生の指針を得たり、と数え上げてもきりがないほどの影響力がある。自分自身がそうであったように、まして生まれてからずっと五㎞の島が自分の生活圏でしかない若者にとって、外の世界に出て行くということは、正式な陸上競技のトラックで走れるということ以上に目に見えない宝物を得ることにつながる。

しかしながら、コーチとしての一番の仕事は選手たちにいい結果を出させることであり、公認の競技会で、それも全天候型のゴムの競技場で初めて走ることになる選手たちを、競技に集中させるため様々な細かい点にまで指示を与えた。にもかかわらず、選手たちは簡単にそれを守りきれず、何故なんだ、これまでやってきたことをこんなことで無駄にしてしまっていいのか、と声を荒げてしまうことが頻繁に起こった。宿泊先の高級ホテルでの生活は、マーレ島での日常とは天と地ほどかけ離れているため、エアコンをつけっぱなしにしては風邪をひき、バイキング形式の食事では食べ過ぎるほど食べた。日頃、一日二食、それもかつおのカレーだけを常とするモルディブ人にとって、目の前にあるおいしそうなものを食べるな、というほうが無理なことはわかっていても、それでは好結果を残し、陸上競技選手としての喜びを得ることはできない。

井の中の蛙は、井の中にいる限り大海を知ることはない。それは日本人でもモルディブ人であっても同じことで、初めて大海に出たときの心の混乱ぶりは、自身の成長のためには不可避なことなのだ、と考えるにいたった。それは、「失敗で」はなく、貴重な「学習」になる混乱なのだと。

任期最後の六ヶ月間、月の最終週は「トライアル・ウイーク」と名づけ、通常練習をせず記録会のみを行った。学校対抗戦も終了し、すぐに国内で大会が計画されそうもない状況で、選手たちに何か励みになるものができないかと考えついたのが「記録会」と「記録証」であった。場所はいつもの周回道路であっても、そこでナショナルコーチのわたしがタイムを計り、前回の記録を上回って自己新記録を樹立したときには新記録証を与える。その記録証にはわたしのサインが漢字で書かれてあり、その日の最後に儀式的な場をわざわざ設け、なるべく重々しく、威厳を持った態度で記録証を渡した。それだけの価値がこの一枚の紙にはあるのだと、本人に感じてもらえるよう、できる限り重々しく。

小学生から中学、高校生、そしてモルディブ代表として遠征経験もある選手たちが月末の記録会の時にはいつもと違う表情を見せた。今日は勝負の日なのだ、というような顔つきでいつもの練習場所に現れ、「コーチ、今日だな」、と少し緊張感を漂わせウォーミングアップに入っていった。それは、わたしが最も見たかったモルディブ陸上競技選手の顔だった。

わたしにとって最後のトライアル・ウイークは、最後のプレゼンターとしての週でもあった。街の印刷屋に頼んで作った少し上等の紙切れ一枚とはいえ、それを手にしたときの選手たちの晴れやかで喜びに満ちた顔を見ながら、昔、運動会のかけっこで一位になってもらったノートや鉛筆をうれしく誇らしげに感じていたことが自分の陸上競技選手としての原点にあり、それと同様なことを今この子たちが感じてくれていれば、わたしの役目は一応果たしたことになるかもしれないなと考えていた。

陸上競技だけでなく、様々なスポーツを楽しめる国民性は、つきつめていくと「教育から生まれる」というのが自分で出した二年間の結論であった。

<その2へ続く>
by saitoru1960 | 2009-12-07 16:27 | いろいろ

心動かされたことを忘れぬように


by saitoru1960