中に浮く原稿②

<中に浮く原稿①からの続き>
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第三章 マレーシアへ高校生を修学旅行に連れていく

旅立ちまでの道のり

二○○六年十一月、わたしはマレーシアのクアラルンプールに兵庫県立伊○○高等学校の二年生二六六名とともに到着した。モルディブから帰国後十六年、ずっと考え続けていた海外修学旅行を、ようやく実現することができた瞬間だった。

兵庫県の高校では七○年代から信州でのスキー修学旅行をいち早く取り入れ、多くの学校が冬の信州に出かけていた。しかしながら、時代の変化とともに小学校でスキー学校が行われ、中学校で飛行機を使い沖縄の平和学習を目的とした修学旅行などが実施され始めると、国際理解などという観点から高校での修学旅行を「海外」へ、という方向性が九○年代後半から少しずつ出始めてきた。

修学旅行は学校行事のため、学校側の理念として、修学旅行で生徒たちに何を学ばせるか、という職員間の共通認識が得られなければ実施することはかなり困難となる。昔に比べ職員の渡航経験者が増加してきているとはいえ、大人数の高校生を見知らぬ海外へ連れての団体旅行となると、国内で起こりえないような緊急時への対処法、治安・安全面、食事、外国籍生徒への配慮など、課題は国内修学旅行にもまして山積し、決定に至るまで時間がかかってしまうのは仕方がないことである。しかしながら、教師側に、海外修学旅行で生徒たちに学ばせたい、というスタンスがきちんと整ってきさえすればハードルはかなり低くなってくるのも確かである。

前年度、伊○○高等学校はそれまでの沖縄での平和学習、北海道の体験学習から、国際理解を教育目標に定め、初めての海外修学旅行を「タイ」に渡航先を選び実施するにいたった。

学校での行事の検討に関しては各学校によって異なり、学年団主導で動くこともあれば、組織としての委員会主導で動くこともある。学年団主導で動いてきていた伊○○高等学校では、学年団が、一年生の一学期に「タイ」を渡航先として海外への修学旅行を決定し職員会議に提案した。国内から海外へ。そして学習目的も大きく異なる決定のため、学年団主導だけではなく学校全体としての取り組みとして考える必要があることなどが確認されながら、伊○○高等学校の初めての海外修学旅行は決定されるに至った。

第二学年の十一月実施で計画は立てられ、当該学年の教師たちはエネルギッシュに準備を進めていった。そして年度が替わり翌年の四月、まだタイへの修学旅行が実施されていないタイミングではあったけれど、わたしは新しい次の学年団の一員として次年度の渡航先をマレーシアにすることを会議で提案した。

「マレーシアという国は、先住民のマレー系民族を中心に中国系やインド系の民族が大半を占める複合多民族国家で、宗教も生活習慣も異なる民族同士が、表立っては大きく争うこともなくお互いを尊重しながら平和に暮らしている。共存している様々な文化や施設に接することで、『マレーシアン・ホスピタリティー』(隣人や異なった価値観の人を思いやる精神)と呼ばれる優しい民族性にふれ、相互理解・多文化共生の概念を体感することができる」

わたしがマレーシアを訪問国として推薦した理由の最も大きな点はここであった。

協力隊時代、わたしは帰国後妻となる女性と手紙を交換し続けていた。彼女は同じ協力隊員として、マレー半島南端のジョホール州にあるオイルパームの入植地に一人暮らし、洋裁の指導にあたっていた。身近に協力隊員がいるわけでもなく、マレーシア人の村の中にたった一人の日本人として暮らしながら、彼女はマレーシアの人たちとの生活の様子を様々な出来事とともに書き綴って届けてくれた。インド洋を越えて届く手紙の数が増えていくにつれ、マレーシアの国、マレーシア人に対するイメージが次第に輪郭をはっきりさせながらわたしの心の中に出来上がっていっていた。

帰国間際にマレーシアでの国際陸上競技大会にモルディブ選手を連れて参加したのがわたしの初マレーシア訪問。帰国後、妻とともにマレーシアを数回再訪しながら、マレーシアの居心地の良さと興味深さは他のアジアの国々にはない独特なものであるように感じられていた。

遠征も含めアジアを十カ国ほど回りながら、面白く興味深い国は数多くあっても、高校生の修学旅行で教育効果の得られる安全な国と考えたとき、地球社会の縮小版としての「多文化共生・多民族国家・マレーシア」がもっとも魅力的でかつ適した国であると考えるに至った。

提案は通り、伊○○高等学校二度目の海外修学旅行は「タイ」から「マレーシア」へと訪問国を変更した。決定後わたしは、今一度手綱を引き締める思いで詳細な計画を立て始めた。

一番のキーポイントとして考えたことは、マレーシア人との触れ合いの中から生徒の心を変化させることであった。単に風光明媚な観光スポットをまわるだけでなく、自然な形でマレーシアの人たちと係わり合い、交流できるようなプログラムをと、村でのホームステイ(一泊体験)やホームビジット(一日体験)、マレーシアの学生にガイドとなってもらった小グループでの一日班別自由行動などのほか、青年海外協力隊員が赴任する専門学校でのマレーシア学生との交流などを、パーツに選びながらひとつずつスケジュールに盛り込んでいった。

日本に住んでいる限り自分にまったく関係がない、と考えていた外国の人とコミュニケーションを図ることによって、海外の国やそこで暮らす人々への距離感を縮め、先入観や自分の中に無意識のうちに存在していた偏見などを取り除くことはできるはずである。また、そこから、少しでも地球市民として考えることのできる自分自身への変化を生じさせることができれば、海外修学旅行の目的は達成できると考えていた。

十代後半の多感な若者が、アジアに漂っている今の日本では感じられにくくなってしまった「何か」を、それぞれの心の中に見つけることができるような旅。
わたしのイメージの中で、マレーシアで楽しそうにしている生徒たちの姿が浮かんでは消え、しだい次第に輪郭ははっきりしたものになっていった。

高校生にとっての異文化とは

「先生、もう少ししおりに詳しいものまで載せといてよ」
ホームステイから帰ってきた生徒が笑いながら少しすねたような口ぶりでわたしに言った。

生徒たちの持つしおりには、簡単なマレー語会話(2)集をイラストとともに載せ、英語だけでなくマレー語でも簡単な会話ができるようにしておいた。かつてモルディブ到着当初に英語でしか話せなかったときと、時間が経ちモルディブ語を覚えて話せるようになったときでは、彼らのなれなれしさというか親近感がまったく違うことを体験していたわたしは、生徒たちも同様の体験ができるよう考え準備していた。ホームステイ先では、マレーシアの人たちが逆にしおりを手にとって、日本語を聞き返したりするシーンも見られたほど、わたしの予測をはるかに超える親密度が出てきていてうれしい誤算となった。
(2)(例)サヤ(わたし)ナ(~したい)ミヌン(飲む)テー(紅茶)「わたしは紅茶が飲みたい」など

事前学習として、マレーシアからの留学生や日本在住のマレーシアの人からの日本語による講演を開催したり、夏季休業中の課題として生徒たちにマレーシアに関することを調べさせたりもしたが、渡航前、生徒たちの頭の中に浮かぶマレーシアのイメージは、汚い、田舎っぽい、発展していない、などのマイナスイメージのものがほとんどであった。

ところが、帰国後のアンケートで、英語が「かなり通じた」と「まあまあ通じた」をあわせて七三%、マレー語が「かなり話せた」と「挨拶程度は話せた」をあわせて四九%という数字を受け、コミュニケーションが「かなりとれた」と「まあまあとれた」で七八%もの高回答になるまで生徒たちの気持ちは変化したのであった。それは、一番楽しかったことが、「人とのふれあい」(三八%)になっていることにもつながり、渡航前と後で、生徒たちのマレーシアへのイメージは一八○度転換したようなアンケート集計結果が得られた。

また、帰国後、「世界の中での日本」、「身近な差別や人権侵害」をテーマに計四時間行った人権教育の授業では、自分の中にあった外国人やマレーシア人に対する偏見や先入観念が、現地の人たちと実際にふれあうことでものの見事に崩れ、自責の念を感じるとまでの意見を書く生徒も出てきた。その上、「身近な差別や人権侵害」というテーマにもかかわらず、マレーシア修学旅行で感じたことを日本での身近な日常での場面に置き換えて考えるような言葉もみられ、外なる世界が内なる世界の変化にまで影響を及ぼしていることがうかがえた。

マレーシアへの修学旅行を考え始めていた時には想像もし得なかった柔らかい感覚をもつ生徒たちの反応に、海外修学旅行の意義を反対に教えてもらうことにもなった。

第四章 エピローグ

青年海外協力隊員として、モルディブで暮らした二年間はモルディブの人たちへの「技術援助」という名目ではあったが、教えたことよりも教わったことのほうがはるかに多かった。

少しずつ「よそもの」から「住人」に変化していく中で、モルディブの人たちからもらった大切な「宝箱」。その「宝箱」に入っていた種を蒔き、水をまくことが、彼らへの感謝の気持ちを最も表すことになる。教育の現場で、一粒でも多くその種から芽が出て大きく育っていけるよう、肥料を上手に足し、手を加え続けていくことが、帰国後も続くわたしの青年海外協力隊員としての活動だと考えている。
by saitoru1960 | 2009-12-07 16:28 | いろいろ

心動かされたことを忘れぬように


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