麓郷の原生林で

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 二十四歳、冬。高知。
 国民宿舎桂浜荘の二階。外灯のあかりがぼんやり差し込む薄暗い部屋に波の音だけが響いていた。目が冴えてしまい、わたしは眠ろうとしてもなかなか眠ることができなかった。
 昼間、桂浜に立ち眼前に広がる太平洋を初めて見た時、これならば竜馬は海にあこがれるはずだな、と納得ができた。打ち寄せる太平洋の男性的な波はそのままどこまでも広がる世界につながり、若者たちに憧れを抱かせるには余りあるスケールの大きさだった。
 そして、大海原を見ている私の背後にあったのが急峻な四国山地だった。それは頭の中でずっと想い描いていた土佐の風景に抜け落ちていたもので、海への希望をより増幅させる土佐の若者たちへの重しとなっていた。来てみなければ気づくことのなかった絶対的な存在感だった。
 二十八歳、秋。モルディブ。
 カニフィノール島の長い桟橋に立ち、遠くの水平線を眺めていた。首都マーレ島で暮らし始め四ヶ月が経っていた。
わたしは、一緒に来た友人に頼み、本の中にあった写真と同じ構図でカメラのシャッターを押してもらった。
椎名誠の見る世界の辺境地や日本の離島などの風景を頭の中で想像しながら、わたし自身の外の世界がどんどん膨らんでいく時代だった。
その延長線上に青年海外協力隊への参加があり、インド洋の小さな島で二年間生活することにもつながったのだった。
食べて、寝て、働くということは、肌の色が変わろうと、どこの国で暮らそうと根源的な所でなんら違いはない、ヒトとはそんなものなのだな、と日本に帰ってくる頃に、実感として理解できるようになっていた。
 四十九歳、冬。香港。
 夜半過ぎの重慶マンション。ドラゴンインという名のゲストハウスの窓のない小さな部屋で、ベッドに腰掛けひとり青島ビールを飲み、小さな溜息をついていた。
 二十代後半の沢木耕太郎はインドからロンドンまで乗合バスでたどり着けるかどうか仲間たちと賭け、ひとり日本を旅立つ。その物語は、インドまでの航空券のストップオーバーとして滞在した香港のゲストハウスの一室から始まっていった。西を目指すその旅は時に足踏みをし、時に居座ってしまい、遅々として前に進んでいかない。
 夜七時すぎのチムサアチョイから香港島までのスターフェリー乗り場の通路で、わたしはテレビを見ながら香港人サポーターに囲まれていた。東アジア大会のサッカー決勝。対戦しているのは香港と日本。
 ゲームは延長でも決着はつかずPK戦に突入した。テレビの前の香港サポーターのボルテージは最高潮に達してくる。日本が外す。こぶしを握り締めた若者がその両腕を高々と空に突き上げる。香港がゴールネットを揺らす。雄叫びが激しく混ざりあい通路中に響き渡る。
 日本が二本目を外したところで彼らは香港勝利の歓喜の声を一緒に叫ぶ準備に入る。
 香港優勝。わたしはごった返すサポーターの渦から離れ、フェリーの乗船口へ歩き出した。
 わたしはそこでただ一人の外国人の気がしていた。
 五十三歳、夏。北海道富良野。
 札幌からバスで富良野に到着後、市街から東に約二十キロ離れた麓郷を目指し、レンタルバイクを走らせていた。途中、八幡丘は一面の畑作地で遠くに十勝連山が見えていた。
 倉本聰が東京から北海道に移住してから考え始めた諸々の事柄。闇の深さと静けさに対する恐怖と畏怖。自然の前の無力さを知っている「農」を生業とする人々のあきらめの思考回路。開墾された自分の土地を目の前にして思う祖先の苦悩。彼の想いは、文字となり映像となってわたしの琴線に触れてきた。
 八幡丘の小高い場所でバイクを止め、エンジンを切る。ふいに風景から音が消える。景色が鮮やかな分、余計に静けさが助長され、厳冬の吹雪の恐怖を想像してみた。
 麓郷は原生林の中にあった。電気が通ってなくても、水道が引かれてなくても、ヒトは知恵を働かせ、逞しく生きていけることをわたしはカレに教えてもらった。そして、目に見えない放射能に故郷を奪われた人達の喪失感と、原発がなくても笑顔で生活していた時代が確かにあったことをドラマで使われた朽ちかけた丸太小屋を前に思い返していた。
 
 何かがわたしを「自分の目で見てみないか」と誘ってくる。
 旅立ちの時が来た。
 さあ、錨を上げよう。
by saitoru1960 | 2013-11-21 20:56 | いろいろ

心動かされたことを忘れぬように


by saitoru1960