日本人について

この極東の島にいる日本人のおもしろさは、オランダ文字といういわば針の頭ほどに小さな穴を通して、広大な西洋の技術世界をのぞいていることである。

蔵六は生涯西洋に行こうともせず、ついに行かなかったが、しかし、「西洋とはこうであろう」と、オランダ語の構文や単語をたどりつつ想像した。蔵六だけではなく、すべての蘭学者がそうであった。西洋人が、ヨーロッパの他の言語をまなぶ作業とは、大いに違っている。言語をまなぶことは、未知の世界に対してそれぞれの学び手が持っている文明の像と質に対する想像力を最大限に働かせることであった。

そういう想像力の作業は、この地球上のいかなる民族よりも、日本人は古い鍛錬の伝統をもっていた。千数百年のあいだ、日本人は漢文という中国の古典語をまなび、それによって、その肉眼で見たこともない中国文明の世界を知ろうとした。知ろうとすることは、日本人にとって想像力を働かせることであった。

 この国は、まわりを海にかこまれている。浜辺に立って沖をのぞむとき、いかにつまさきを立てて伸びあがろうとも、沖は水平線でしかなく、中国大陸も見えねば、ましてヨーロッパは見えない。結局は空想したり想像したりする以外になく、その空想や想像を刺激して像を結ぶにはその文明世界の文字を学んで読む以外にない。そういう精神作業を、気の遠くなるほどの長い期間、日本人は漢文によって自己訓練をした。

 オランダ語は、すでに江戸の初期から学ぶものが出てきている。が、徳川幕府は日本人が*放恣(ほうし)な想像力を身につけることをおそれ、想像力の統制をした。漢学を学ぶことを正統とし、そのなかでも*朱子学を*官学とし、官設や藩立のいかなる学校でもオランダ語というものを学ばせなかった。自然、長崎通詞(幕府の通訳官)や物好きがそれを学び、ほそぼそとその伝統を維持して幕末にいたった。それが、ペリー来航前後から、大いに事情が変わった。蘭学の流行期に入った。

「洋学」というのは、オランダ語をまなぶことであり、その目的は西洋技術を取り入れることであった。
幕府は鎖国以来、ヨーロッパとの交渉をオランダ国にかぎったため、他のヨーロッパのことばを学ぶことは幕府への遠慮もあり、実情としても学ぶ手だてもなかった。ところがオランダ国は、ヨーロッパの小国にすぎない。 

ヨーロッパの主役的な存在ではなかった。そのことに、蘭学者たちがそろそろ気づきはじめたのは、横浜開港直後の安政六年からよく万延元年あたりにかけてである。蔵六のこの物語のこの時点あたりからであった。
「英語が、世界的な主役的な言語らしい」と、長州藩の麻布藩邸でオランダ語の講義をしている村田蔵六がときにそのことで、首をかしげはじめたのも、このころからである。

(司馬遼太郎著「花神」新潮社より)
by saitoru1960 | 2016-02-18 04:27 | いろいろ

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