名こそ惜しけれ(3年の初めに)

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自分自身を磨こうとする時、苦しさを感じることなく壁を乗り越えるための努力をしていることがある。
高校に入学した頃、大きく開くことができず悲鳴を上げた股関節。しかしながら、幾度もその悲鳴と対話を繰り返すことで股関節は柔軟性を増し、知らない間に以前の股関節とは違うものになってしまっている。

高校3年になり、目前の勝負の瞬間のためここから必要になってくることは今まで以上に自分自身を磨こうとする意志である。瞬間瞬間に自身の心に生じる悲鳴を聞くこと。そしてその悲鳴との対話こそが「磨く」ための必要条件となってくる。刺激が弱すぎれば悲鳴は生じず、悲鳴そのものがなければ対話は成り立たない。まずは悲鳴を上げられるかどうかが分岐点になる。

作家司馬遼太郎は、鎌倉時代の武士が育んだ「名こそ惜しけれ」の精神が日本人には脈々と受け継がれている、と述べている。私利私欲は恥、恥ずかしいことはしない、ただそれだけの宗教ともとれる教えが日本人の心の奥底には生き続けているというのだ。生きていくうえでの基本・規準とでもいうべきもの、美意識と言っていいのかもしれない。自分の名にかけて、誰にもうしろ指をさされない、自分の行いには自分が責任を持つ、ということなのだろう。

悲鳴と対話をし続けていると、対話は苦しさに耐えることだけではない、と気づくこともでてくる。そしてその気づきを体感した者こそ、結果がどうあれ自分は正しかったのだと安堵し、次なる何かを追い求めてまた「名こそ惜しけれ」の行動を起こす人間ではないかとわたしは思っている。
by saitoru1960 | 2016-04-07 19:55 | いろいろ

心動かされたことを忘れぬように


by saitoru1960