かつ丼の吉兵衛

三宮センタープラザ西館地下1階に三宮市場がある。
神戸の繁華街ど真ん中にありながら、その地下で八百屋や魚屋、漬物屋などが並び、昼食時には定食やうなぎ、天丼などを食べさせる店に勤め人達が列を作っている。

かれこれ20年以上前、「きちべえっていうかつ丼屋は、大将のかつどんを作る手さばきが見事で、見ているだけでもおいしく感じてしまうのですよ」と、生徒に教えてもらって、この市場にあるかつ丼の店「吉兵衛(よしべえ)」を初めて訪れた。
当時の店は座席がカウンター席6つほどしかない屋台のようなたたずまいで、食べる者と作る者の距離は1mほどしか離れてはいなかった。
狭い空間の中で大将の動きには全くと言っていいほど無駄がなく、職人技の動きに心地よくなりながら、出されたかつ丼をワシワシ食い進んでいくことになるのだった。

吉兵衛のメニューは、かつ丼600円、てんこ盛(大盛)650円、てんこ盛(玉子2個)700円、だぶる(かつ2枚、玉子2個)950円、赤だし50円、だけである。
昔なかったソースカツ丼も知らない間にメニューに加わっていたが、それでも基本は卵とじと同じ、てんこ、玉子2個、だぶるである。

かつ丼なので、お客はスムーズに流れ、通路に並んでいてもしばらくすると順番が回ってくる。
椅子に座り、てんこと赤だし、と注文すると、まいど、と大将はきちんと目線を合わせてニコッとして迎えてくれる。
大将は手際よく衣の着いた豚肉を油で揚げていきながら、親子鍋(かつ丼や親子丼の時に使うとってのついた小さい鍋)にだし汁と玉ねぎを投入し少し煮立て、揚げたてのとんかつをザッ、ザッ、ザッとリズミカルに幅1cm弱に切り終えるとのだし汁の煮立った親子鍋にかつを投入していく。
頃合いを見計らって小さめのボールに生卵を片手でカコンと割り落し、菜箸でチャッチャッチャッチャッと高速で適度にかき混ぜすぐさまカツの上に流し込む。絶妙のタイミングで火を止め、浅葱を投げ込むとすぐさま蓋をして絶妙の間をおいて出来上がり、となる。

現在は市場の奥から入口の場所に移動し、席も16席ほどに増え、丸見えの厨房に大将含め4人入っても余裕があるほどまでに店は大きくなっている。
昔から、昼を過ぎ2時頃になってもまだたくさんの人が並んでいたのだけれど、店構えが大きくなった今も、やはり状況に変わらず吉兵衛に並ぶ人は絶えることがなく繁盛している。

確かに吉兵衛のかつ丼はうまい。
かつの揚げ方やかつ一切れの幅のサイズ、そして肉そのものも、わたしにとってはこの上ない極うまのかつ丼である。
しかしながら、赤だしはわかめがチョロリと入っているだけ、食べ放題のたくわんは黄色いどこにでもあるようなもの。薬味の七味も普通だし、山椒の粉なるものも置いているけれど、S&Bの瓶にいつも入っているごく普通のものではないかと思う。
こだわりの店などになれば、この小物類にもこだわるのだろうけれど、吉兵衛はそのあたりにはなにもこだわりを見せていない。こだわりをみせない店で、お客は大将の作る600円のかつ丼を食べるために昔から今も並んでいることになる。

吉兵衛の大将は、お客が椅子に座るときちんとお客のほうを向いて目をみつめ、眉毛をほんのわずか、口の端っこを心もちもち上げ、まいど、と挨拶をする。
「目をみつめ」、というのと、「ほんのわずか」、「心もち」というのが鍵である。
その動作にお客は、「おつ、また来てくれたんですね、ありがとう。わたしはお客さんのことをきちんと覚えていますよ」、と大将が心の中で言っている、と感じてしまうのである。
食べ終わり座席を立つと、大将は、「まいど。ありがとう」と、やはりきちんと目を見て挨拶を投げてくれる。
不思議なことに、お客の方は大将にそう言ってもらいたいがために、大将に向かって「ごちそうさん」と声をかけて席を立つようになっていく。
大将とお客のコミュニケーション。マクドの¥0スマイルとは決定的な違いがある。
by saitoru1960 | 2007-04-06 05:57 | いろいろ

心動かされたことを忘れぬように


by saitoru1960