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孤独ということに

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by saitoru1960 | 2016-04-13 20:21 | 読み物

今年読んだ本と観た映画

<今年の本>
街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)
週刊朝日増刊 追悼 高倉健
246 (新潮文庫)
キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)
海賊とよばれた男 上
許す力 大人の流儀4
ネバーランド (集英社文庫)
プリンセス・トヨトミ
マレーシア航空機はなぜ消えた
君に舞い降りる白 (集英社文庫)
きみはいい子 (一般書)
日本霊性論 (NHK出版新書 442)
こころ (集英社文庫)
3日もあれば海外旅行 (光文社新書)
るるぶ十勝 帯広 ガーデン街道 (国内シリーズ)
家族ゲーム (集英社文庫)
神去なあなあ日常
ステップ (中公文庫)
なにを食べたらいいの? (新潮文庫)
コーランを知っていますか
漂流
星をつくった男 阿久悠と、その時代
愚者が訊く
日本の川を旅する―カヌー単独行 (新潮文庫)
無名
ポーカー・フェース (新潮文庫)
55歳からのハローライフ
百舌の叫ぶ夜 (百舌シリーズ) (集英社文庫)
小津安二郎への旅: 魂の「無」を探して
雲は答えなかった 高級官僚 その生と死 (PHP文庫)
レコード・コレクターズ増刊 大滝詠一 Talks About Niagara コンプリート・エディション
遠い国
人質の朗読会
レコード・コレクターズ 2014年 04月号 [雑誌]
聞き書き 倉本聰 ドラマ人生
レコード・コレクターズ 2014年 03月号 [雑誌]
津波と原発 (講談社文庫)
小さいおうち (文春文庫)
クアラルンプール マレーシア (タビトモ)
成長から成熟へ さよなら経済大国 (集英社新書)
歩くような速さで (一般書)
街場の憂国論 (犀の教室)
ユーミンの罪 (講談社現代新書)
流星ひとつ
砂の王国(上) (講談社文庫)

ベスト3
NO.1 雲は答えなかった
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NO.2 日本霊性論
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NO.3 海賊と呼ばれた男
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<今年の映画>
あなたへ
幸福の黄色いハンカチ 
紙の月
マダムマロリーと魔法のスパイス
オオカミは嘘をつく
悪童日記
レッドファミリー
フライト
めぐり逢わせのお弁当
2つ目の窓
グランド・ブダペスト・ホテル
サード・パーソン
ある過去の行方
フルートベール駅で
東京物語
別離
東京暮色
それでも夜は明ける
ウルフ・オブ・ウォールストリート
クラッシュ
ダークナイト
ファイヤーウォール
ボーン・アイデンティティー
サニー 永遠の仲間たち
少女は自転車にのって
永遠の0

ベスト3
NO.1 めぐり逢わせのお弁当
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NO.2 それでも夜は明ける
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NO.3 東京物語
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by saitoru1960 | 2014-12-29 08:57 | 読み物

ヒトに問う

まえがきより
火を手に出来たこと。
自らの手で自然から食を得、自然の物によって衣を作り、自然の物から住居を作る術を身につけたこと。考えてみればヒトの歴史上、衣・食・住の手法、これに勝る発明はなかったのではないか。
文明社会は進歩を求める。求めるというよりそれを追求する。追求しまくる。
しかし、自然には進歩というものがない。自然の営みに右肩上がりはない。そこにあるのは「循環」のみである。では、その両者間に矛盾は出ないのか。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「覚悟」という言葉を今考える。
我々はこの不幸な大事故後の人間生活のあり方について、大きな岐路に立たされている。
一つの道は、これまで通り、経済優先の便利にしてリッチな社会を望む道である。その場合これまでの夜の光量、スピード、奔放なエネルギーの使用を求めることになるから、現状では原発に頼らざるを得ない。その場合再び今回同様の、もしかしたらそれ以上の、想定外の事故に遭遇する可能性がある。
その時に対する「覚悟」があるか。
今一つの道は今を反省し、現在享受している便利さを捨てて、多少過去へと戻る道である。この場合、今の経済は明らかに疲弊し、日本は世界での位置を下げる。そうしたことを認識した上で今ある便利さを、捨てる「覚悟」があるか。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
我々は今大きな岐路に立たされている。
2本の道が目の前にあり、いずれを選ぶか決めなければならない。
一つの道は、これまで通り、経済優先にしてリッチな社会を望む道。その場合これまで同様のエネルギー供給、電力供給を望むことになるから、当分は原発を必要とする。その場合今回のような想定外の事故がいつ起きるとも限らないが、起きても仕方がないという覚悟があるか。
但し、その覚悟は、遠くの原発を想定してはならない。近くの原発、隣の原発を想像してもらわなくてはならない。
 あなたは原発から2~3キロ以内に住んでいる。庭の向こうは原発である。もしかしたらそういう危険地域だから家賃、地代は安いかもしれない。だが原発に何かが起これば、マグニチュード9の地震が起これば、危険信号が出される前にあなたは既に放射能を浴びている。それでもそこに住む覚悟があるか。
 今一つの道は、現在享受している便利さを捨て、多少の不便へと戻る道である。即ちこれまで電気が石油が、代替エネルギーがやってくれたことを、自分の力でなさねばならない。今のような楽はできないだろう。今のようなスピードは望めないだろう。日本の国力はたちまち衰え、日本は小国へと沈没するだろう。
 それでもそっちの暮らしを望むか。
by saitoru1960 | 2013-11-21 09:03 | 読み物

人格とスマホ(オダジマ)

博覧強記対八面六臂

 大阪のホテルの一室でこの原稿を書いている。
 当地に滞在している理由は、昨晩(水曜日の夜)、市内のとある書店で開催されたトークイベントに登壇者として呼んでいただいたからだ。
 イベントは盛況だった。終了後の打ち上げも、終始なごやかにこなすことができた。
 ところが、ホテルに着いてみると、携帯電話が無い。
 イベント会場の書店に、上着ごと忘れてきたらしい。
 東京を離れると、かなり高い確率で、所持品を失くしたり、忘れてきたりする。
 昔からそうなのだが、旅先でのオダジマは平常心を失う設定になっている。
 ノマド適性が低いのだと思う。
 とにかく、夜が明けたら、書店の開店を待って、ブツを引き取りに行かないといけない。なのに、携帯電話がないと、携帯電話を回収するための連絡さえままならない。ダブルバインドだ。
 というよりも、大げさに言えば、世界とのつながりを絶たれた感じだ。
 電波世界のロビンソン・クルーソー。
 お手上げだ。
 で、仕方なく開店を待つ間、ホテルにとどまって原稿を書いている。
 ところが、うまく執筆のリズムに乗ることができずにいる。
 そんなに繊細至妙な文章を書いている自覚は無いのだが、どういうものなのか、調子が出ない時は筆が進まない。
 おそらく私は、自室の執筆環境に依存している。
 いつも使っているパソコンの扱い慣れたエディタや、ブラウザのブックマークや、各種の辞書や、気晴らしのためのゲームや、逃避先としての紅茶やテレビといった、固有の環境が揃っていないと、アタマが十全に機能してくれないのだ。
 とはいえ、ノマド環境に適応するべく自分を最適化すれば良いのかというと、単純にそうとばかりは言えない。
 マックブックエアでバリバリ仕事ができるようになると、今度はどうせあいつに依存するようになる。私はそういう性質(たち)の人間なのだ。
 持ち歩き用のパソコンやタブレットに依存している人々は、昨今、珍しくない。
 たとえば、昨晩のようなトークイベントに若い世代の登壇者が登場するケースでは、彼らは、まず間違いなくモバイルのパソコンを持ち込んで来て、それを目の前に開いた状態で話を始める。必ずそうするのだ。
 シンポジウムでも、単独の講演でも、公開の鼎談や座談会でも同じことだ。三十代までの若手文化人は、デジタルのガジェット込みの拡張版の自我を介して現実に対応していて、それらのモバイルなエゴのスイッチがオンになっていないと、自分の知的活性力を十全に機能させることができない。だから、彼らは生放送のスタジオにさえ自前のマシンを持ち込む。
 彼らは、場の話題に追随しながら調べ物を続行する能力を備えている。具体的に言うと、口から言葉を発しながら、同時に、手元では資料を並べ直していたりするわけで、訓練の行き届いた人になると、会場のナマの声(ツイッター経由だったりニコ生のコメントだったり)を拾いながら、パワポの資料をスクリーンに展開しつつ、絵柄に沿ったジョークをカマすことができる。おそらく、生まれた時からあのテのマシンと並走してきた彼らのアタマは、デフォルトの設定がマルチタスクになっているのだと思う。
私にはそういう真似はできない。
 昨晩の対談のお相手だった内田樹先生も、そういうことはまるでおできにならない。
 わたくしども半世紀以上以前に生まれた人間の脳みそは、徹底的にシングルタスク仕様で設計されている。だから、しゃべっている時にはしゃべる以外のことはできない。
 私はマナーの話をしているのではない。
 若い人たちを非難するつもりでこういうことを書いているのでもない。
 大切なポイントは、ある世代から下の人々にとって、「知識」や「情報」という言葉の持つ意味が、バックグラウンドに後退しているということだ。
 善し悪しの問題ではない。
 現実に、若い人たちにとって、「知識」は、まず何よりもマシンの中に(あるいはクラウドの上に)格納してあるものだ。ということは、それらは、必要に応じてアクセスすれば良いものであって、必ずしも生身の人間がムキになって自分のアタマの中に保持せねばならないものではない。そういうことになっている。
 だからこそ、その反作用として、彼らは、生のトークが展開されるみたいな場所に、パソコン(そういえば「ナレッジナビゲータ」なんて言葉がありましたね)を伴った知的サイボーグ状態で登場せずにおかないのだ。
 彼らにとって、パソコンの中味(とその先にあるネット上の情報、つぶやく言葉、フェイスブックでのお付き合い)は、半ば彼ら自身なのであって、ということは、ウィンドウを開いていない時の彼らは、半分ぐらいスリープした状態であるのかもしれない。
 私自身も偉そうなことは言えない。
 現にいま現在、手元にスマホがないだけのことで分離不安に陥っているわけだし、慣れないモバイルのマシンで原稿を書くことに多大なストレスを感じたりもしている。
 私の自我も、かなりの部分で、自分の書斎に取り込まれてしまっているということだ。
 いずれにせよ、ガジェットを手にした人間の機能なり自意識が拡張するということは、その人間の自我がガジェットやクラウドに吸収されるということでもある。これは、なかなかやっかいなことだ。
 私が子供だった頃、知識は、でき得る限り、自分のアタマの中に詰め込んでおくべきものだった。そう考えて、われわれは、暗記競争に血道をあげていた。だからこそ、私の世代の若者は、澁澤龍彦や種村季弘のような博覧強記の教養人に憧れたのである。
 事実、私よりも上の世代の知識人は、ほとんどすべての知識を身体化(具体的に言えば「丸暗記」ということだが)していたし、そうでなくても、旧世代の書斎人は、自宅の書斎に自前の書籍や紙の資料を集積することで、独占的な情報を確保していた。
 しかしながら、いまや、知識は外部化され、共同化され、クラウド化され、シェアされ、公共化する流れの中にある。
 ということは、象牙の塔は、象牙のタブレットぐらいのところまで大衆化しているのだろう。
ずっと昔、ある弁護士さんがこんなことを言っていた。
「弁護士だからといって、六法全書を丸暗記する必要はない。ただ、六法全書のどこに何が書いてあるのかは、最低限知っていないといけない。ついでに言えば、自分の詳しくないケースについて、誰に電話すれば良いのかを知っているともっと良い」
 つまり、圧倒的な知識量を要する法曹の世界では、ずっと以前から、知識の外部化(つまり、六法全書に記載していつでも参照可能な状態にしておくこと)が始まっていたということなのだと思う。
 で、現在は、法曹以外のあらゆる分野でも、暗記していることそのものよりも、知識へのアクセスの方法を知っていることの方が重要になってきている。実態としても、集合知がここまで手軽に利用できるようになってくると、生身の知識量(身体化した情報)にさしたる意味は無い。
 むしろ、マルチタスク能力や、検索スキルの方が実用的なサバイバル技術として高く評価されることになるはずだ。
 そう思ってみると、教育再生実行会議が、「大学入試に人間力を」みたいなことを言い出した(こちら)ことも、このことと無縁ではない。
 すなわち、背景には、身体化された知識(平たく言えば「丸暗記」のこと)の地位低下があずかっているということだ。
 話が飛躍していると思う人もあるだろうが、あの会議の中の人たちが、知識の多寡を問う大学入試の現状に、一貫して疑念を表明していることは事実で、そのウラには、やはり、「知識」の位置づけの変化があるはずなのだ。
 教育再生実行会議が、例の提言を持ちだして来た時、私は、
「ああ、要するに、この人たちは、産業社会の要請にかなった人間を大学に迎え入れようとしているのだな」
 というふうに受け止めた。
 いまもって、基本的には、この感想は変わっていない。
 しかしながら、よくよく考えてみれば、提言の意味はそれだけではない。
 おそらく、会議の提言には、一般の人々の内なる「声」が反映されている。
 で、その有力な「声」のひとつが、「知識量そのものよりも知識の活用法の方が重要なんだぞ」ぐらいな、時代の気分なのであろうと、ここのところ、思いはじめている次第なのである。
 さてしかし、「人間力」とは、いったいどういう能力を指して言っている言葉なのだろうか。
 私自身は、一向に理解できないでいる。
なにより、「人間力」を計量可能な資質であるとする考え方自体に、どうしてもなじむことができない。あまりにも軽薄すぎる。
 百歩譲って、「人間力」が計量可能なのだとしても、その能力に優劣をつける主体が人間である以上、「人間力」入試は、事実上、大学関係者が、受験生の人間的価値を恣意的に序列化する過程になってしまう。こんなバカな話があるだろうか。
 学力試験による合否は、幅広い人間性のうちに含まれる「学力」という計量可能な一部分を、あくまでも一面的に評価した結果にすぎない。
 その意味で、「学力」による受験生の選抜は、一面的であることによる弊害を持っている一方で、一面的であるからこその救いをもたらしてもいる。どういうことなのかというと、大学入試に落ちたからといって、人間的に低劣だという烙印を押されたわけではなくて、単に学力の低さを指摘されているに過ぎないということだ。
 ところが、「人間力」入試は、受験生の人格そのものに優劣をつけてしまう。
 人間の価値に優劣があるという前提自体、考えてみれば相当に空恐ろしい思想だと思うのだが、彼らは、その「人間をその人間性の優劣に沿ってソーティングする作業」を、大学入試の面接官(だよね?)に委ねようとしている。
 と、人間力入試で不合格判定を受けた学生は、悪くすると「人間失格」ということになる。
 まあ、ここまで意地の悪い見方をしなくても良いのかもしれない。
 率直なところを語るなら、教育再生実行会議の委員の皆さんが、「学力偏重」の入試制度に疑問を抱いたというところまでは、私も共感できないわけではない。
 おそらく彼らは、単なる「学力」(「生身の人間の中にどれだけの知識を詰め込んだのか」ということ)の指標でしか無い「学歴」が、支配的な選別基準として機能している現状に、憤りを覚えたのだと思う。
 ここまでは分かる。
 私自身、学歴は、不当に重視され過ぎていると思っている。
 ただ、ここで、「教育再生実行会議」は、「学歴」の弊害を減少させるために、「学歴偏重傾向を緩和する」という方向には動かなかった。
 彼らは、「入試」を改革することで、「学歴」の意味を改め、そうすることで、「教育」を「再生」しようとしている。
 揚げ足取りに聞こえるかもしれないが、彼らの「会議」が「再生」という旗印のもとに招集されていることに私はどうしてもこだわらずにおれない。というのも、「現状の教育」が「崩壊」なり「死滅」しているという前提がなければ、「再生」という言葉は出てこないはずだからだ。
 要するに、「会議」は、いきなり現状否定から出発しているのである。
 で、その「再生実行会議」の彼らが敢行しようとしている入試改革は、「入学試験」を「より十全な指標」に改善することであるように見える。
 もう少し実態に即した言い方をするなら、教育再生実行会議は、「大学入試」が「知識量」や「学力」の反映である現状を改めて、それを、より「人間力」に準拠したものに変化させることで、「大学生」の「質」を改善しようとしている。私の目にはそのように見える。
 これは、かなりとんでもないことだ。
 というよりも、神をも恐れぬ傲慢な所業だと思う。
少なくとも、この改革は、学歴信仰の緩和とは逆方向のソリューションだ。
 なぜならば、学歴の人間力化は、学歴のオールマイティー化だからだ。
 入試改革は、なによりも、東京大学入試の改革として顕現するはずだ。
 もちろん、東大だけが大学であるわけではないし、東大のみが変われば日本の教育が変わるというものでもない。
 が、象徴的には、入試改革のお話は、「東大にはどういう生徒が入学するべきなのか」という問題として語られざるを得ない。この構造は決して変わらない。
 なので、以下、東大の話をする。
 「勉強のできる子」であるにすぎない東大生が、人間的に立派な存在であるかのように扱われている現状に疑問を持つ人が多いというところまではわかる。
 そんな一面的な東大信仰は捨てるべきだし、現役の受験生はともかくとして、社会に出た人間は、いいかげんにその種の発想とは縁を切るべきだと思う。
 ところが、教育再生実行会議の提言を言葉通りに受け止めると
「東大には立派な人間が入学すべきだ」
 みたいなお話になっている。
 日本一の大学である東京大学には、単に勉強ができるだけの子供が入学するのではいけない。人間的にもっと幅の広い、リーダシップとコミュニケーション能力を併せ持った、より完成度の高い学生を集めるのでなければ、最高学府の名には値しない、と、彼らはたぶんそういうふうに考えている。
 と、そうなったとして、東大信仰は、緩和されるだろうか?
 されない。
 むしろ強化されるだろう。
 というよりも、「東大生は立派な人間であるべきだ」「学歴の高い人間は優れた人間力を備えているべきだ」という発想が、そもそも、東大信仰、学歴偏重思想そのものなのである。
 結局、いま持ちだされようとしている入試改革は、丸暗記エリートを尊敬しない人々が増えてきたことに対する反作用みたいなものなのであって、会議の面々は、「人間力エリート」という、世にもうす気味の悪い学生を作り上げようとしているわけだ。
 最後に、個人的な意見を述べるなら、大学生は、学力で選抜されるべきだと思う。
 産業界が就活生に求める資質と、大学が受験生に要求する能力が同一である必要はない。
 企業は、それぞれの考えや経営方針に沿って、企業ごとに個性ある選抜をすれば良い。
 その選抜方針に、大学が義理立てをする義理はないし、そうするべき必然性もない。
 とすれば、ネット上や実社会で丸暗記の評判が落ちているのだとしても、学問研究の場である大学は、あくまでも、個人の身体の中に内在化される知識を重視すべきなのである。
 知識を外部化し、集合知にリンクするということは、誰かが用意した情報を人格の中にダイレクトに取り入れることだ。
 度を超せば没個性化と個人の端末化を引き起こさずにはおかない。
 マルチタスクOSを目指すならいざしらず、ツールになってはいけない。
 ちなみに当コラムはまごうことなきジャンクデータだ。
 個性はあるが、役には立たない。もちろん、人間力も磨けない。
by saitoru1960 | 2013-11-21 05:39 | 読み物

小田嶋、スマホを語る

携帯電話が「留守」という状態を想定していないことは、ツールの性質からして当然だ。が、留守の無いスケジュールをこなすことは、それを強いられる人間にとってはどうにもブラックな出来事なのである。

電話がポケットの中に無かった時代、どうしても電話に出たくない時には、電話から離れれば良かった。

たとえば近所の喫茶店に行くのでも良いし、散歩に出かけるのでも良かった。とにかく、そうやって電話の制空権から外に出さえすれば、書き手は督促電話の圧力から逃れることができた。そして、督促から自由になることではじめて活性化するタイプのアイディアというものも、(たぶん)実在したものなのである。

ところが、携帯電話は散歩中でも着信音を伝えてくる。
無論、家に置き忘れてくることも可能だし、突発性難聴に陥ることもできない相談ではない。が、携帯に出ないことは、固定電話に出ないことに比べて、もう一段階失礼な応対になる。これは、いかんともしがたい。

スマホの場合、さらに厄介だ。
あいつは、直にやってくる通話以外に、メールはもちろん、SMSや、LINE経由のメッセージや、ツイッターのDMといった多様な連絡手段の窓口になる。

これがくせ者だ。
というのも、この種のメッセージは、深夜や未明に威力を発揮するからだ。

「直接の電話は遠慮しますが、私はまだ起きています。私はまだ目を覚ましてお待ちしています。そのことを伝えるためにこうしてメッセージをお送りしています」
「オダジマさんは、LINEはやってないんですか?」
「@tako_ashi お待ちしてますなう」

こういうものを、午前4時に決められると、ちょっと呼吸が苦しくなる。

大切なのは、原稿の督促であれ、上司の叱責であれ、得意先のわがままであれ、顧客からの苦情であれ、スマホが、それらのネガティブなメッセージを、こちらのプライベートライフを切り裂く形で伝えてくるということだ。

しかも、スマホは、ツイッターやLINEやその他ウェブ経由の馬鹿話を伝えることで、われわれの余暇時間を空費させる。
この種の猿に辣韮(ラッキョウ)を与えるタイプの娯楽は、楽しいか楽しくないかということを超えて、撤退できない。

なんというのか、スマホはそれを持った人間をコミュニケーション依存に陥らせる魔力を持っているのだ。

なので、私は、「スマホニゼーション」という用語を提唱しておきたい。
成り立ちとしては「モータリゼーション」を踏まえた言い方で、ということは、モータリゼーションが「車社会化」であることになぞらえるなら、「スマホニゼーション」は、「スマホ化社会」ということになる。

スマホが蔓延しスマホの利便性のために社会資源が使われているような社会。
いつまで続くのかは分からないが、私たちは、いま、そういうものの中にいると思う。

モータリゼーションが完遂した社会では、その社会の中にいる人々の多くがクルマを持ち、道路や駐車場や店舗といった施設が自動車を伴う暮らしに最適化された形で提供されている。
便利であるには違いない。

が、モータリゼーションが進行した社会は、別の角度から見ると、「自動車を持っていない人間が暮らしにくくなっている社会」でもある。
具体的に言えば、赤字ローカル鉄道が廃線になり、路線バスが運行を断念し、主として徒歩でやってくる客のために商売をしていた駅前の商店街が滅びつつある社会だ。こういう社会では、年寄りは暮らせない。

あるいは、クルマを持っていない身障者や、運転免許を持っていない子供たちにとっても、どうにも生活のしにくい世界であるはずだ。

スマホ化した社会も、たぶん、そんなふうな調子で、スマホを持っていない人間を排除する側面を備えるようになる。
スマホ経由でしか申し込めないチケットや、スマホを持っていないと内容を確認できないクイズや、スマホユーザーにだけ開示されたキャンペーンは既にある。今後、こうしたサービスは、より範囲を広げて行くはずだ。

もしかすると、お役所が提供するタイプの公的サービスの中にもスマホを前提としたものが登場するかもしれない。

当然のことながら、「ほとんどの人間がスマホを持つようになった社会」は、「ほとんどの人間が幸福になった社会」とイコールではない。

ただ、後戻りができるかどうかは、また別の話で、スマホのおかげで、誰も幸せになっていないのだとしても、一度普及してしまったものを捨てることはとてもむずかしい。スマホ化した社会は、スマホを持っている人間を幸福にするかはどうかはともかく、スマホを持っていない人間に不便をもたらすことについては、たぶん指一つ動かさないだろうからだ。

極端な例を引くと、たとえば拳銃の例がある。

アメリカでは、総人口と銃の数を換算すると2人に1丁の割合で銃が普及している計算になるらしい。

あるいは遠い歴史の中で、フロンティアを広げつつあった人々が、それぞれに自前の銃を持ち、自力で町の自治と自由を守り抜いてきた経緯は、アメリカ市民に自由と独立をもたらしていたのかもしれない。

が、今現在、アメリカ国内に溢れている銃がアメリカ人に安全をもたらしているのかどうかというと、これはちょっと怪しい。おそらく、より大きく、危険をもたらしているはずだ。

それでも、一度蔓延してしまった銃を手放すことは簡単ではない。
というのも、銃社会は、銃を持っている者に安全をもたらすかどうかについては既に心許なくなっているものの、銃を持っていない者にとって危険をもたらすという部分については、依然として変わらないからだ。

現在、私は、手持ちのスマホを、一世代前のガラケー(ガラパゴス携帯)に戻すことを検討している(そして、ガラケーのラインナップの壊滅ぶりに驚いている)。

そのばあい、鉄砲を弓矢に持ち替えるぐらいな覚悟はいるはずだ。
矢でも鉄砲でも持ってこいってなことで、いっそ携帯そのものを捨てる手もある。

いよいよ状況が押し詰まったら検討してみたい。 
by saitoru1960 | 2013-09-29 16:26 | 読み物

「潔癖だけでは変わらない」 

 僕が初めて投票したのは昨年の衆院選です。「投票しないやつが偉そうに言うな」と批判されるようになったので、しょうがなく。
 政治に無関心なのではなく、投票したい候補者がいない。政治に不信感があるし、自分の一票で良くなるとはとても思えない。
 若い人の投票率が低いのも同じ考えの人が多いからなのでは。 
投票を「市民の義務」みたいに押しつけられるのにも抵抗があると思います。「投票しない自由」だってあるはずだ、と。
 それは若者に多い「潔癖さ」なんだと思います。一方で、年をとるとそんなにつきつめて考えず、まあ投票しておくか、となる。
 ネット選挙で若者の投票率が上がるという声がありますが、いいことばかりじゃないでしょう。
 雑誌編集者は「読者はがきは読むな」と教えられます。読者はがきを書くのは、右よりの雑誌では極右、左よりの雑誌では極左の読者が多い。つまり少数派の極端な意見で、それに引きずられてはいけない。
 今の政治家はネットで有権者の声が見えるようになり、それになびきがち。でも、わざわざネットで政治に意見を述べる人なんて少数派ですよ。読者はがきを一生懸命読んでいるようなものだ。
 僕は今回は投票します。僕にとって重要な憲法が争点の一つだから。それに潔癖なだけじゃ、政治はきれいにならない。しょうがないけれどやる。便所掃除みたいなもんです。
小田嶋隆
by saitoru1960 | 2013-07-04 05:29 | 読み物

バングラの低賃金労働

バングラデシュのダッカ郊外で4月に衣料工場が入居したビルが倒壊し多数の犠牲者を出した事故を受けて、途上国にある国際衣料メーカーの提携先工場での労働慣行に批判的な目が注がれている。
そうした中で、「ユニクロ」ブランドを展開するカジュアル衣料大手ファーストリテイリングは、バングラデシュで策定が進められている法的拘束力のある労働環境安全協定に当面参加せず、独自に自社提携先工場の災害訓練や 建物検査を強化する方針を示した。

これに対し、人権NGO「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」アジア部門のフィル・ロバートソン副部長は「ユニクロが協定に参加しないのは極めて近視眼的だ。途上国の労働問題は組織的に解決する必要があり、1企業やそのサプライチェーンの問題ではない」と述べ、ファーストリテイリングの対応を批判した。  ウォールストリートジャーナル 5月27日

「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングの柳井正会長兼社長は、 店長候補として採用した全世界で働く正社員すべてと役員の賃金体系を統一する「世界同一賃金」を導入する考えを明らかにした。海外で採用した社員も国内と同じ基準で評価し、成果が同じなら賃金も同水準にする。 朝日新聞 4月23日
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ファーストリテイリングがバングラディッシュに進出したのは2008年。
現在では数多くの商社やアパレルがバングラディッシュ製造に参入している。
理由は単純。バングラディッシュの最低賃金は月37ドルで、生産性がほぼ同じの中国より5分の1も安いからだ。
そして、衣料工場の数は5千もあり、ベトナムの2千、カンボジアの250を上回る。
しかし、多くの工場の環境は劣悪だ。児童労働者が700万人もいる。工場火災や倒壊は当たり前で、労働環境は日常的に悪い。環境を改善しようと、労働運動を広めてもその責任者は不当な扱いを受ける。労働組合を作って環境改善しようとした活動家の中には誘拐され拷問を受けて死亡した者もいる。
 
昨年11月にウォルマート向けの商品を製造していた工場で112人が火災で死亡する事故が起きたが、その後の政府やメーカーや衣料工場やの対応は鈍く、今年4月には、衣料ビル工場の崩壊でその10倍の千人以上の死亡者を出した。

ウォルマートは昨年の火災前に「高い安全性を確保した上で操業する工場でなければ、当社はその工場から製品を調達しない。」と語ってはいたが、正式契約業者が火事にあった工場を下請けで使っていたのだ。
つまり、先進国大企業が自主的に倫理安全基準を作っていても、コスト圧力が高くて儲からないから、裏で基準を守らない下請け業者を使うのだ。そして、先進国のアパレルバイヤーはこの状況を見て見ぬふりをしてきたのだ。

今回、欧州中心に法的拘束力のある労働環境安全協定を作ったのは、これまでの二枚舌を使った欺瞞を止めようとしているから。
海外企業が輸出区域で直接監視している工場は、状況が良くとも、繊維業界の大部分である下請け、孫受け業者に対しては、監査人を使って納入業者を検査しているが、搾取や不当行為を断つための情報や権限がないからだ。

協定が多くの企業から構成されれば、汚職や軍の隠れた影響力、政治家を兼務する工場所有者の妨害を乗り越えるよう、初めて政府に圧力をかけられる。
この現状を知れば、今回の労働環境安全協定に参加しないことで、その企業がどんな本音を持っているかを知ることが出来る。

多くの日本人に知ってほしいのは、ファストファンションやディスカウント店で安く服を買っている事で、途上国民の命を軽んじている事だ。
昔、学校で注意して帰れという意味で「家に帰るまでが遠足」と言われたろう。
店で買う商品は、製造の全ての過程をひっくるめて「商品」なのだ。
by saitoru1960 | 2013-05-28 18:42 | 読み物

若者たちが生きる今(日経ビジネスOLより)

 京都大学の入学試験中に、問題の一部をインターネットの質問サイトに書き込んでいた受験生が逮捕された。
 山形県出身の19歳の予備校生だという。
 当件は、ニュースショーのコメンテーターが述べていたように「ハイテク犯罪」と捉えるべき事案なのであろうか。

 違うと思う。
 凡庸なカンニング事件だ。ハイテクどころか、犯行の手口の随所に粗雑さが露呈している。
 スマートフォンもインターネットも、いまどきの受験生にとっては、日常のツールに過ぎない。われら中高年にとってさえ、携帯とネットは既に生活の前提だ。とすれば、靴を履いた人間による犯罪をわざわざ「靴犯罪」と呼ばないのと同じく、インターネットを使った犯罪をあえて「インターネット犯罪」と呼ぶ必然性は、もはや消滅したと考えるべきだ。同様にして、携帯電話を駆使した事件を「ハイテク犯罪」として特別視する理由も無い。

 今回は、「ヤフー知恵袋」を利用した不正入試疑惑と、鹿児島の大学生による高速バス横転事件について考えてみたい。私の見るに、この二つの出来事は、いずれも「若い人たちが現実社会への適応を誤って起こした事件」という点で共通している。これは、悲鳴なのだ。とすれば、大人であるわれわれは、心して耳を傾けなければならない。

 芸術家や詩人を「炭鉱のカナリヤ」になぞらえるお話がある。
 ここで言う「カナリヤ」は、鉱夫が炭鉱に入る際に鳥カゴと一緒に持ち込む小鳥のことで、炭鉱の男たちがカナリヤを先頭に坑道を進む理由は、安全確認のためだ。カナリヤは空気の変化に敏感な生き物で、炭鉱内の空気にほんの少し有毒ガスが含まれているだけで、たやすく死んでしまう。それゆえ、カナリヤと共に坑道を行く炭鉱夫たちは、手もとにある可憐な小鳥の死によって、有毒ガスの発生をいち早く察知し、そのことによって、有毒ガスが致命的な濃度に達する前に避難する機会を得るのである。

 以上のプロットを踏まえて、芸術の擁護者を自認する人々は、芸術家をカナリヤにたとえる。芸術家がその一身のうちに備えている鋭敏な感受性が、ちょうどカナリヤが自身の死を以て炭鉱の危険を知らせるように、作品を通して時代の潮流の変化を告知している……とかなんとか。パトロンは、そうやって芸術家の役割を人々に訴え、かくして、この一つ話は、新聞社が美術展を協賛したり、地方公共団体がある種の団体に補助金を交付する際の前振りの演説として利用されるのである。まあ、枕詞みたいなものだ。

 個人的な意見を申し上げるに、私は、芸術家の先生方より、犯罪者の方が時流告知カナリヤとして優秀なのではなかろうかと考えている。
 つまり、犯罪は、社会的ストレスの露頭であり、その意味で、目新しいタイプの犯罪の発生は、われわれの社会に新たな矛盾が生まれつつあることを告げるカナリヤの歌なのだ。
 盗人に三分の理がありテロリストに三行のスローガンがあるように、犯罪者にもいくばくかの正義がある。そして、その彼等のねじ曲がった正義は、時に、時代に特有な欺瞞を鋭く告発する。そういうものなのだ。

 いや、私は犯罪の発生原因を社会の矛盾に帰することで、犯人を免責しようとしているのではない。オダジマは社会派のコラムニストではない。ただ、私は、誰かがバスをひっくり返したり、試験問題をネットに放流したりするのにはそれなりの理由があるはずで、その種の事件が起こった際には、迷惑をこうむった社会の側からの言い分とは別に、事件をやらかした人間の側の理屈に注目せずにおれない、カナリヤ派の書き手なのだよ。歌を忘れてはいても。カゴの中にいる自覚は失っていないわけだからして。

 バス横転事件を引き起こしたと見られている学生(K容疑者)は、1月5日、フェイスブックに
「今春に仕事を見つけないといけない。少しナーバスで忙しい」
 という意味の文章を英語で投稿している。
 さらに、今月16日には、ミクシィに
「ES終わらないorz」
 と書き込んでいる。
ちなみに、「ES」は「エントリーシート」の略。学生が就活の際に企業に提出する「応募用紙」のことだ。単なる履歴書と違って、企業の側が独自に設定した質問項目を含んでいる。小論文試験と履歴書を兼ねた応募用の書類と考えれば良いのかもしれない。

「orz」は、無理矢理に読み下す場合、「おるつ」ないしは「おるず」と発音する組が多数派らしいのだが、普通は音読しない。心眼で読む。なぜなら絵文字だから。絵解きをすれば、「o」が頭、「r」が肩と腕、「z」が「膝をついた下半身」を表現し、全体として「四つん這いの姿勢で落胆する(膝から地面に崩れ落ちている)人間」のありさまを描写する。ニュアンスとしては、「ガックシ」「やってらんねぇ…」ぐらいだろうか。

 私は、「orz」の後ろに括弧書きで(落胆・失意を示す記号)という解説を付した新聞記事を読んで、少し笑った。ははは、新聞は、こういう解説が必要な人々のためのメディアになってしまったのだなあ、と。
 が、笑いが引いた後、容疑者の学生の孤独を思って粛然とした。
 K容疑者の焦燥が、校閲経由の解説抜きでは世間に届かなかったという、そのことに思い至ったからだ。ESの受け取り手である企業の採用担当の人々も、彼が「orz」という自らの似姿にこめた感情を汲み取ることはできないだろう。なんという孤独な嘆き。結局、大人たちは、この学生の「orz」を黙殺したのだ。

 就活に従事している大学生は、多かれ少なかれ、誰もが打ち捨てられた気持を抱いている。
 といって、日本中の就活生がバスをひっくり返しているわけではない。まして容疑者は3年生だ。4年生に比べれば、まだまだずっと楽な立場にいる。だから私は、就活生が苦しんでいるという理由で、K容疑者を擁護しようとは思わない。

 でも、それはそれとして、昨今の就活の様相は、やはりどうかしていると思う。圧力に敏感なタイプのカナリヤ人格の学生が、発作的に高速バスのハンドルに手を伸ばす気持も理解できる。彼等にはそれほど巨大な負荷がかかっている。

 就活が大変なのは今にはじまったことではない。私が就活生だった時も、それはそれで苦しかった。
「なんでオレがネクタイをしているのかわかるか?」
 と、私は、当時、2浪3留のあげくに3回目の大学1年生をやっていた高校時代の同級生に、先輩面をしてこぼした。
「胸の奥からこみあげて来るものをせき止めるためにだよ」
「……ん? 二日酔いか?」
 楽天家の1年生は、へらへらと笑っていた。
 ……お前にはわからない。オレのこの気持は、同じ就職活動をしている紺ギャバの学生奴隷と、火の輪くぐりをしているサーカスの動物にしかわからない。ちくしょう。

 それでも、私の時代の就活は、現在のそれに比べれば、ヌルかった。
 なにしろ、就活の開始が、4年生の10月1日だ。
 10月以前は、ほとんど何もしなかった。私は、9月の連休をはさんだ10日間ほどを、八ヶ岳の山荘で過ごしていた。それでも間に合ったのだ。さよう、当時はまだ「就職協定」(就職解禁日を10月1日とする紳士協定)が機能している時代だった。あの協定は、どうして破棄されてしまったのだろう。この国の企業社会から紳士がいなくなったということであるのか。

 私よりさらに以前の大学生の就活は、さらにさらにお気楽だった。就職が決まって髪を切ってきた時にもう若くないさとキミに言い訳していたあの学生は、考えてみれば、長髪のままで面接をしていたわけだが、ことほどさように、昭和の就活は牧歌的だった。ふざけるなと言おう。

 もちろん、ESなんていう七面倒臭いものはなかった。提出書類は履歴書オンリー。あとはぶっつけ本番の面接があるだけ。ダメなら落ちる。で、落ちたら次を当たる。ま、箱入り娘のお見合いみたいなものだ。
 訪問する会社の数も、せいぜい10社まで。私は4社しか回らなかった。
 10月の上旬に初回の会社訪問をした企業から2回目の面接のお呼びがかかったら、当然そこに出向く。ということはつまり、よほど連続して初回面接で落とされ続けない限り、10社以上の企業を回ることは、物理的にありえなかった。そんなことは心理的にも不可能だった。

会社の側から見ると、10月1日に訪問してきた学生は、自分のところを第一志望にしていることがわかる。だから、それなりに優遇する。で、以下、10月2日組、10月3日組ぐらいまでをひと通り見比べて、二次面接に呼ぶ学生を決める。学生は電話を待つ。そうやって、企業と学生は、電話とハガキでつながっていた。インターネットが無い以上、関係は一対一で、二股をかけることは困難だった。
 就職活動期間が限られていた分、選択肢が狭かった事実は否めない。学生の側から見ても、企業の側から見ても、出会いの機会は、時間的にも空間的にも限定されていた。

 とはいえ、日本中の大学生が、同日同時刻を期して一斉に第一志望の会社を訪問する形式の就活方式は、志望企業がダブらない点で、学生、企業双方にとって、負担が軽かった。
 1人の学生が数十社にエントリーシートを送付することで動いている現在の就活は、企業と学生の「出会い」の数を増幅させている一方で、出会いの「質」を劣化させている。
 なんだか、結婚紹介ビジネスの空回りみたいだ。
 紹介数だけを見れば、よりどりみどりに見える。でも、実態はお互いにコナをかけあっているだけの不毛な交渉が続く。うん。聞きかじりだけどね。昔、結婚紹介所でアルバイトをしていた知り合いがそう言っていたのだよ。「ペーパーが行ったり来たりしてるだけよ」と。

 学生にとって、本当に行きたい会社が50社も60社もあるわけではない。
 たくさん声をかけておかないと不安だから、50枚のESを書いているというだけだ。
 一方、会社側の立場に立ってみると、一流企業の場合、採用枠に対して、数十倍のエントリーシートが届く。このこと自体は、喜ばしい出来事に見える。が、ESを提出してきた学生の全員が自社を第一志望にしているかどうかはわからない。志望者の数は増えても、熱意はその限りではない。

 ともかく、選択の余地が広がったことはポジティブな変化であるはずで、その意味で、ESにも一定の意味はあるのだと思う。企業としては、ウェブの採用ページからESの用紙をダウンロードさせれば、理論上、無数の志望者を募ることができるのだし、学生は学生で、時間と情熱の続く限りESを書けば良いわけだから。

 が、当たり前の話だが、最終的に、1人の学生が入社できる会社は1社だけだ。
 ということは、学生にとっては、「出会い」の数が増えれば増えるだけ「落とされる」リスクが高まることになる。
 企業にとっても、「出会い」の数が増えることは、「逃げられる」リスクを上昇させる。
 いったい誰が得をするんだ?

 もうひとつ見逃せないのは、多くの企業が、ESを「手書き」で指定している点だ。当然、鉛筆は不可。
 ネットで「ESの書き方」を検索すると、
「本当に入社したい会社なら、修正液はNGと考えた方が良いでしょう。書き損じや誤字脱字がひとつでもあったら、潔くはじめから書き直しましょう」
 てなことが書いてある。
 うわあ。
 地獄じゃないか。
 というよりも、この設定は、単純な話、「いじめ」じゃないのか?

 思い出した。
 心理学の世界に「スタンフォード監獄実験」という有名な実験がある。
 詳しくは、Wikipediaを見ていただくとして、その実験の結果を乱暴に要約すると、「一定数の被験者を任意の2グループに分けて、それぞれ看守と囚人の役を割り振っておく。と、やがて、看守役の人間は権力をふりかざすようになり、囚人役の被験者は卑屈な態度を取るようになる」ぐらいだ。
 つまり、いじめは、いじめを実行することになる個人の個性よりも、その人間の社会的な役割(ないしは地位)がドライブしているタイプの行動なのだ。

就活をめぐるマインドセッティングは、スタンフォード大学の実験の前提ととてもよく似ている。
 一方が他方の生殺与奪の権を握り、全面的に優位な立場に立っている。
 学生は、試され、質問され、緊張を強いられている。にもかかわらず彼は、自分に緊張を強いている当の人々に気に入られることを願い、できれば仲間に加わりたいと考えている。
 一方、採用側は、学生を検分し、評価し、点数化し、彼に対して恩を与え、あるいは排除する権能を持っている。
 この状況では、「いじめ」が起こらない方が不思議だ。おどおどした学生を何十人も面接しているうちに、面接官はゲシュタポみたいにふるまうようになる。はずだ。

 企業側が、ESを手書きで提出させるのは、「手書きの文字に表れる人柄を見たい」「安易なコピー&ペーストを防止したい」といった理由からなのだろう。
 でも、学生側の負担を思えば、その程度の理由で手書きを強いるのはやはり残酷とは言えまいか。
 文字に表れる人柄を見るなら、履歴書で十分だ。なにもA4の用紙2枚分びっしり、ペン書きを求める必要はない。
 コピペ防止も、対策としてたいした意味はない。どっちにしても、何十枚もESを出す学生が書く内容はコピーになる。機械的にペーストできないというだけだ。

 企業の側の担当者は、おそらく「学生は苦労をすべきだ」ぐらいに考えている。
「無意味な試練であれ、学生には一定の通過儀礼が必要だ」
 という考えの裏には、「いじめ」の心理がある。でなくても、体育会組織の先輩気質みたいなものが、あずかっている。私はそう思う。だって、学生に求められている苦労の種類が、いくらなんでもあんまりくだらないから。

 もうひとつ、私の時代には、悪名高い「指定校制度」というのがあった。
 指定校制度は、1980年代ぐらいまで、当時の人気企業が公式にアナウンスしていた採用方針、その実態は、
「当社では、早慶および国立一期校の卒業生以外募集しておりません」
 といった感じの、おどろくべき高飛車な差別的求人政策だった。
 ひどいといえば、たしかにひどい。
 が、正直といえば正直でもあったわけで、事実、膨大な数の面接希望者をある程度の数に絞るために、指定校制度は、一定の機能を果たしていたのである。私の場合、学部が教育学部だったので、銀行、商社からは、軒並み門前払いを浴びた。当時、人気企業は、学校名だけでなく学部も限定していた。なんという高慢求人。なんという冷血。ちくしょう。

 とにかく、一次選考の現場で求められていたのは、シンプルで機械的な振り分け基準だった。たとえば身長でも良いし足の大きさでもかまわない、あるいは、血液型とか星座でもOKだったかもしれない。なんであれ振り分けには何らかの基準が必要で、「学校名」は、そうした様々な想定のうちでおそらく最も穏当(らしく見える)な差別だったのである。

 指定校制度は、しかし、「差別的だ」という理由で、ほどなく廃止され、過去のものとなった。
 現在は、すべての企業が、すべての学部・大学の学生に対して等しく門戸を開放している。
 素晴らしい。
 でも、「指定校制度」は、本当に「消滅」したのだろうか。
 建前上、目につかないところに引っ込めただけで、事実上は暗黙のルールとして残っているのではないのか?
 そして、明文化されていた振り分け基準が、陰にこもった差別に化けた分だけ、実態は陰湿になっていて、21世紀の企業は、表に出せない様々な差別的スタンダードを採用しているのかもしれない。

 こんな話がある。ある女子大の学生が、自分のESが無視され続ける状況に業を煮やして、ある時、就職登録サイトに、東大生の偽名を使ったニセのエントリーを作った。と、これがウソみたいに効果覿面で、記述内容は学校名以外まったく同じなのに、偽東大生の分のESには、バンバン返事が来るというのだ。
 しょせん、ネット上の噂だ。本当なのかどうかはわからない。でも、ありそうな話だ。実際、学生の多くはそう思っている。「どうせ、あいつら学校名しか見ちゃいないんだよな」ぐらいに。

そう。欺瞞だ。
 問題は欺瞞なのだ。どんなに苦しい闘いでも、いかに苛酷な競争であっても、ゴールの先に価値ある勝利が待っていて、走り抜けるトラックが公正であるのなら、選手たちは努力を惜しまない。苦しくても頑張ることができる。
 でも、競争が欺瞞で、ゴールが不当で、前提がインチキであるという疑念が一瞬でも生じたら、彼等の苦難はにわかに不潔極まる不毛な我慢比べになってしまう。

 大学入試における不合格は、結局のところ、その原因を、自身の努力か能力(あるいはその両方)の欠如に求めるほかにどうしようもないテのものだ。その意味で、悔しくはあっても、最終的には納得できる。
 が、就活の失敗には、明確な答えがない。基準も点数も明示されない。落とされた身からすれば、人格を否定された後味だけが残る。まして、その失敗が20件も続いたら、マトモな精神状態を保っていること自体、難しくなる。

 カンニングをした予備校生は、気の毒だが、非常に高い授業料を払うことになる。
 で、事件を受けて、有識者は、受験生の視野狭窄をたしなめにかかるはずだ。
「偏差値がすべてではない」
 とかなんとか。どうせ彼等はそう言うのだ。
 が、犯人の少年は、おそらく、私の思うに、偏差値がすべてだと思っていたわけではない。

 今回の事件を、学歴に拘泥した結果の犯行と見なすのは、学歴を信奉している人間が陥りやすい錯誤だと思う。
 犯人は、学歴を信じていない。むしろそれらを軽蔑し敵視していたからこそ、結果だけを不正な手段で手に入れようとしたのだと思う。

 現在、われわれは、学歴や偏差値について、二つの相反する建前が併存したダブルスタンダードの社会で暮らしている。
 テレビに出てくる文化人は、学歴を「無意味な飾りに過ぎない」と言う。
 著名な起業家も「偏差値を絶対視する態度は間違っている」と断言する。
 教壇に立つ学校の先生も、「個性が大切」だと、異口同音にそう主張している。
 いま大学を受験しようとしているのは、そういう耳に心地よいお題目を聞かされてきた子供たちだ。

 なのに、いざ受験が始まると、偏差値は俄然主役の座を占める。学歴も然り。実際のところ、身の回りのほとんどすべての大人は「学歴」と「偏差値」を気にかけている。そう。欺瞞だ。人々はウソをついているのだ。
 世間向けには、学歴の弊害を語っていながら、自分の子供の前では、昭和の教育ママそのまんまの偏差値万能思想を押し付けてくる。
 厄介な話だ。

 受験生がカンニングをし、就活生がバスを横転させ、期間工がトラックで歩行者天国に突入する……というふうに、逸脱の様相が、年齢を経る毎に凶暴になっている。不気味だ。

 菅首相あたりが、突然核武装を宣言したりしないか、心配だ。
(不正入試とエントリーシートと「orz」な若者たち)小田嶋隆「ア・ピース・オブ・警告」
by saitoru1960 | 2011-03-05 05:45 | 読み物

心動かされたことを忘れぬように


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