カテゴリ:心にのこる( 47 )

これからの生き方

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by saitoru1960 | 2016-11-27 08:35 | 心にのこる

消費社会とは何か

「転換期を生きるきみたちへ」(内田樹編)、の中で白井聡という人が書いていた言葉。
「これから主役となる世代こそが、文明の仕組みの再構築というこの困難な仕事に立ち向かう運命
 にあるのです。
 そんな巡り合わせになっている諸君は不運だろうか。
 決してそんなことはありません。
 本物のやりがいは、困難な仕事にのみ存在するのです」

by saitoru1960 | 2016-09-20 06:01 | 心にのこる

愛校心

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2016年7月16日。
PL学園野球部の休部が決まった翌日の毎日新聞。
水戸支局長は関大出の石井と同い年の男だった。
心のおりが少しだけでも取り除かれることになったのか・・。
by saitoru1960 | 2016-07-16 05:54 | 心にのこる

永六輔の言葉

Q. 好きな人に告白する言葉を教えて (小6・女の子)
A. 永先生:言葉は一番大切です。でも、好きな人に「あ、この子好きだな」とか「いい人だな」と思われるには、「おなべをいっしょに食べて同じものをおいしいと思う」、「夕やけを見て、両方が美しいなと思う」というような同じ感動を同じ時点で受け止めるのが一番効果があります。
例えば、「いただきます」とか元気な声で言っていると、それだけで「あの子いただきますって言ってるな。きっといい子なんだろうな」と思うじゃないですか。「あなたがすき」ですとか、「キミを僕のものにしたい」とか、「世界のどこかで待ってる」とか、そういうのはあんまり効果がありません。
「きれいだな、おいしいな、うれしいな」ということが同時に感じあえる環境が一番大事。だから、「好きです、嫌いです」という言葉ではなく、いい言葉を使っている子は好きになれる。「あの人ならこの言葉は好きだろうな」と思った言葉を何気なく使っているときの方がドキンとします。「あなたが好きです」というのは最悪な言葉です。
だから、いっしょの環境にいるときに同じ感動をする場面に出来るだけいっしょにいる。スポーツの応援でもいいです。そうすると、使いあっている同じ言葉にドキンとすることがあって、それが愛なんです。
自分でいうのもおかしいけど、ひとりでご飯を食べてておいしいことないです。ひとりで野菜を食べているときは本当にさみしい。やっぱり家族、好きな人といっしょのほうがいい。二人っきり、まずはふたりになること。きれいな言葉を使いあうこと、きれいなことに感動すること、ふたりで声をそろえて感動してください。
放送タレント 永六輔 先生
by saitoru1960 | 2016-07-14 05:38 | 心にのこる

バットを振る

七月。
その日の朝は雨が降っていた。
グラウンドで練習ができない時によく見られるように、野球部員たちが数名体育館入口の雨に濡れない場所でバットを振っていた。
ガラス扉の前は自分のフォームをチェックできるベストポジションになる。
この朝その場所にいたのは双子の長田兄弟だった。

前日は選手権前の最後の「背番号渡し」の日だった。
事前に新聞発表された一回目のメンバー選出。
そして最終選考になるこの日、背番号をもらえなかった三年生にとっては、
君はもう
試合でマウンドに立つことも
バッターボックスに立つことも
守備につくことも100%ありません
と、高校野球の終焉を告げられた日だった。
ベンチに入れる二十人の中に弟の陸は選ばれ兄の樹は選ばれなかった。

野球部の朝練習は自由参加で、この朝、雨も降り背番号をもらえなかった部員の中には出てこない者も多かった。
でもそんな中、長田兄弟はいつもの時間に登校し、いつものようにバットを振っていた。
途中一度、樹は陸に脚のつき方や左腰の動きなどのアドバイスをしていた。
そしてまた、二度とバッターボックスに立つこともないのに、樹は一人ガラス扉に向かってバットを振り始めた。
今まで数えきれないほど繰り返してきた様に淡々と。

by saitoru1960 | 2016-07-14 04:56 | 心にのこる

「一銭五厘の旗」

戦時、人は葉書一枚一銭五厘で徴兵された。この文章当時、はがきは7円。
■■■
美しい夜であった
もう 二度と 誰も あんな夜に会うことは ないのではないか
空は よくみがいたガラスのように 透きとおっていた
空気は なにかが焼けているような 香ばしいにおいがしていた
どの家も どの建物も つけられるだけの電灯をつけていた
それが 焼け跡をとおして 一面にちりばめられていた
昭和20年8月15日
あの夜 もう空襲はなかった
もう戦争は すんだ まるで うそみたいだった
なんだか ばかみたいだった へらへらとわらうと 涙がでてきた
どの夜も 着のみ着のままで眠った
枕許には 靴と 雑のうと 防空頭巾を 並べておいた
靴は 底がへって 雨がふると水がしみこんだが ほかに靴はなかった
雑のうの中には すこしのいり豆と三角巾とヨードチンキが入っていた
夜が明けると 靴をはいて 雑のうを肩からかけて出かけた
そのうち 電車も汽車も 動かなくなった
何時間も歩いて 職場へいった そして また何時間も歩いて家に帰ってきた
家に近づくと くじびきのくじをひらく ときのように すこし心がさわいだ
召集令状が 来ている でなければ その夜 家が空襲で焼ける
どちらでもなく また夜が明けると また何時間も歩いて 職場へいった
死ぬような気はしなかった
しかし いつまで生きるのか見当はつかなかった
確実に夜が明け 確実に日が沈んだ
じぶんの生涯のなかで いつか戦争が終るかもしれない などとは夢にも考えなかった
その戦争が すんだ 
戦争がない ということは それは ほんのちょっとしたことだった
たとえば 夜になると 電灯のスイッチをひねる ということだった
たとえば ねるときには ねまきに着かえて眠るということだった
生きるということは 生きて暮すということは そんなことだったのだ
戦争には敗けた しかし 戦争のないことは すばらしかった
軍隊というところは ものごとをおそろしく はっきりさせるところだ
星一つの二等兵のころ 教育掛りの軍曹が 突如として どなった
貴様らの代りは 一銭五厘で来る 
軍馬は そうはいかんぞ 聞いたとたん あっ気にとられた
しばらくして むらむらと腹が立った
そのころ 葉書は一銭五厘だった 
兵隊は 一銭五厘の葉書で いくらでも
召集できる という意味だった (じっさいには一銭五厘もかからなかったが……)
しかし いくら腹が立っても どうすることもできなかった
そうか ぼくらは一銭五厘か そうだったのか
〈草莽(そうもう)の臣〉 〈陛下の赤子(せきし)〉 〈醜(しこ)の御楯(みたて)〉
つまりは 〈一銭五厘〉ということだったのか
そういえば どなっている軍曹も 一銭五厘なのだ 
一銭五厘が 一銭五厘をどなったり なぐったりしている
もちろん この一銭五厘は この軍曹の発明ではない
軍隊というところは 北海道の部隊も 鹿児島の部隊も おなじ冗談を 
おなじアクセントで 言い合っているところだ
星二つの一等兵になって前線へ送りだされたら 着いたその日に 聞かされたのが 
きさまら一銭五厘 だった
陸軍病院へ入ったら こんどは各国おくになまりの一銭五厘を聞かされた
考えてみれば すこしまえまで 貴様ら虫けらめ だった
寄らしむべし知らしむべからず だった
しぼれば しぼるほど出る だった
明治ご一新になって それがそう簡単に変わるわけはなかった
大正になったからといって それがそう簡単に変わるわけはなかった
富山の一銭五厘の女房どもが むしろ旗を立てて 米騒動に火をつけ 
神戸の川崎造船所の一銭五厘が同盟罷業をやって
馬に乗った一銭五厘のサーベルに蹴散らされた
昭和になった
だからといって それがそう簡単に変わるわけはないだろう
満洲事変 支那事変 大東亜戦争
貴様らの代りは 一銭五厘で来るぞ とどなられながら 
一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた 
へとへとになって眠った
一銭五厘は 死んだ
一銭五厘は けがをした 片わになった
一銭五厘を べつの名で言ってみようか
<庶民>
ぼくらだ 君らだ
あの八月十五日から 数週間 数カ月 数年
ぼくらは いつも腹をへらしながら栄養失調で 
道傍でもどこでも すぐにしゃがみこみ 坐りこみながら
買い出し列車にぶらさがりながら 
頭のほうは まるで熱に浮かされたように 上ずって 昂奮していた
戦争は もうすんだのだ
もう ぼくらの生きているあいだには戦争はないだろう
ぼくらは もう二度と召集されることはないだろう
敗けた日本は どうなるのだろう
どうなるのかしらないが 敗けて よかった
あのまま 敗けないで 戦争がつづいていたら
ぼくらは 死ぬまで 戦死するか 空襲で焼け死ぬか 飢えて死ぬか
とにかく死ぬまで 貴様らの代りは 一銭五厘でくる とどなられて 
おどおどと暮していなければならなかった
敗けてよかった
それとも あれは幻覚だったのか
ぼくらにとって 日本にとって あれは 幻覚の時代だったのか
あの数週間 あの数カ月 あの数年 
おまわりさんは にこにこして ぼくらを もしもし ちょっと といった あなたはね といった
ぼくらは 主人で おまわりさんは家来だった
役所へゆくと みんな にこにこ笑って かしこまりました なんとかしましょうといった
申し訳ありません だめでしたといった 
ぼくらが主人で 役所は ぼくらの家来だった
焼け跡のガラクタの上に ふわりふわりと 七色の雲が たなびいていた
これからは 文化国家になります と総理大臣も にこにこ笑っていた
文化国家としては まず国立劇場の立派なのを建てることです と大臣も にこにこ笑っていた
電車は 窓ガラスの代りに ベニヤ板を打ちつけて 走っていた
ぼくらは ベニヤ板がないから 窓にはいろんな紙を何枚も貼り合せた
ぼくらは主人で 大臣は ぼくらの家来だった
そういえば なるほどあれは幻覚だった
主人が まだ壕舎に住んでいたのに 家来たちは 大きな顔をして キャバレーで遊んでいた
いま 日本中いたるところの 
倉庫や物置きや ロッカーや 土蔵や押入れや トランクや 金庫や 行李の隅っこのほうに
ねじまがって すりへり 凹み 欠け おしつぶされ ひびが入り 錆びついた
〈主権在民〉とか〈民主々義〉といった言葉のかけらが
割れたフラフープや 手のとれただっこちゃんなどといっしょに つっこまれた
きりになっているはずだ
(過ぎ去りし かの幻覚の日の おもい出よ)
いつのまにか 気がついてみると おまわりさんは 笑顔を見せなくなっている
おいおい とぼくらを呼び おいこら 貴様 とどなっている
役所へゆくと みんな むつかしい顔をして いったい何の用かね といい
そんなことを ここへ言いにきてもダメじゃないか と そっぽをむく
そういえば 内閣総理大臣閣下のにこやかな笑顔を 最後に見たのは
あれは いつだったろう
もう〈文化国家〉などと たわけたことはいわなくなった
(たぶん 国立劇場ができたからかもしれない)
そのかわり 高度成長とか 大国とかGNPとか そんな言葉を やたらに
まきちらしている
物価が上って 困ります といえば その代り 賃金も上っているではないかといい
(まったくだ)
住宅で苦しんでいます といえば 愛し合っていたら 四帖半も天国だ といい
(まったくだ)
自衛隊は どんどん大きくなっているみたいで 気になりますといえば
みずから国をまもる気慨を持て という
(まったく かな)
どうして こんなことになったのだろう 
政治がわるいのか 社会がわるいのか マスコミがわるいのか 文部省がわるいのか
駅の改札掛がわるいのか テレビのCMがわるいのか となりのおっさんがわるいのか
もしも それだったら どんなに気がらくだろう
政治や社会やマスコミや文部省や駅の改札掛やテレビのCMやとなりのおっさんたちに
トンガリ帽子をかぶせ トラックにのせて 町中ひっぱりまわせば それで気がすむというものだ
それが じっさいは どうやら そうでないから 困るのだ
書く手もにぶるが わるいのは あのチョンマゲの野郎だ
あの野郎が ぼくの心に住んでいるのだ
(水虫みたいな奴だ)
おまわりさんが おいこら といったとき おいこら とは誰に向っていっているのだ といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎がしきりに袖をひいて 目くばせする
(そんなことをいうと 損するぜ)
役人が そんなこといったってダメだといったとき お前の月給は 誰が払っているのだ といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎が 目くばせして とめたのだ
あれは 戦車じゃない 特車じゃ と葉巻をくわえた総理大臣がいったとき
ほんとは あのとき 家来の分際で 主人をバカにするな といえばよかったのだ
ほんとは 言いたかった
それを チョンマゲ野郎が よせよせととめたのだ
そして いまごろになって あれは 幻覚だったのか どうして こんなことになったのかなどと 白ばくれているのだザマはない
おやじも おふくろも じいさんも ばあさんも ひいじいさんも ひいばあさんも そのまたじいさんも ばあさんも 先祖代々 きさまら 土ン百姓といわれ きさまら 町人の分際で といわれ きさまら おなごは黙っておれといわれ きさまら 虫けら同然だ といわれ きさまらの代りは 一銭五厘で来る といわれて はいつくばって暮してきた 
それが 戦争で ひどい目に合ったからといって 戦争にまけたからといってそう変わるわけはなかったのだ
交番へ道をききに入るとき どういうわけか おどおどしてしまう
税務署へいくとき 税金を払うのはこっちだから もっと愛想よくしたらどうだといいたいのに どういうわけか おどおどして ハイ そうですか そうでしたね などと おどおどお世辞わらいをしてしまう
タクシーにのると どういうわけか運転手の機嫌をとり 
ラーメン屋に入ると どういうわけかおねえちゃんに お世辞をいう
みんな 先祖代々 心に住みついたチョンマゲ野郎の仕業なのだ
言いわけをしているのではない
どうやら また ひょっとしたら 新しい幻覚の時代が はじまっている
公害さわぎだ
こんどこそは このチョンマゲ野郎を のさばらせるわけにはいかないのだ
こんどこそ ぼくら どうしても 言いたいことを はっきり言うのだ
工場の廃液なら 水俣病からでも もうずいぶんの年月になる
ヘドロだって いまに始まったことではない
自動車の排気ガスなど むしろ耳にタコができるくらい 聞かされた
それが まるで 足下に火がついたみたいに 突如として さわぎ出した
ぼくらとしては アレヨアレヨだ まさか 光化学スモッグで 女学生バッタバッタ にびっくり仰天したわけでもあるまいが それなら一体 これは どういうわけだ
けっきょくは 幻覚の時代だったが
あの八月十五日からの 数週間 数カ月 数年は ぼくら心底からうれしかった
(それがチョンマゲ根性のためにもとのモクアミになってしまったが)
それにくらべて こんどの公害さわぎはなんだか様子がちがう
どうも スッキリしない
政府が本気なら どうして 自動車の生産を中止しないのだ
どうして いま動いている自動車の 使用制限をしないのだ
どうして 要りもしない若者に あの手この手で クルマを売りつけるのをだまってみているのだ
チクロを作るのをやめさせるのなら 自動車を作るのも やめさせるべきだ
いったい 人間を運ぶのに 自動車ぐらい 効率のわるい道具はない
どうして 自動車に代わる もっと合理的な道具を 開発しないのだ
(政府とかけて 何と解くそば屋の釜と解く 心は言う(湯)ばかり)
一証券会社が 倒産しそうになったとき 政府は 全力を上げて これを救済した
ひとりの家族が マンション会社にだまされたとき 政府は眉一つ動かさない
もちろん リクツは どうにでもつくし考え方だって いく通りもある
しかし 証券会社は救わねばならぬが 一個人がどうなろうとかまわないという式の考え方では 公害問題を処理できるはずはない
公害をつきつめてゆくと 証券会社どころではない 倒してならない大企業ばかりだからだ
その大企業をどうするのだ ぼくらは 権利ばかり主張してなすべき義務を果さない
戦後のわるい風習だ とおっしゃる(まったくだ)
しかし 戦前も はるか明治のはじめから 戦後のいまも必要以上に 横車を押してでも 権利を
主張しつづけ その反面 なすべき義務を怠りっぱなしで来たのは 大企業と 歴代の政府ではないのか
さて ぼくらは もう一度 倉庫や 物置きや 机の引出しの隅から おしまげられたり ねじれたりして
錆びついている〈民主々義〉を 探しだしてきて 
錆びをおとし 部品を集め しっかり 組みたてる
民主々義の〈民〉は 庶民の民だ
ぼくらの暮しを なによりも第一にするということだ
ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ
それが ほんとうの〈民主々義〉だ 政府が 本当であろうとなかろうと
今度また ぼくらが うじゃじゃけて見ているだけだったら
七十年代も また〈幻覚の時代〉になってしまう
そうなったら 今度はもう おしまいだ
今度は どんなことがあってもぼくらは言う
困まることを はっきり言う人間が 集まって暮すための ぎりぎりの限界というものがある
ぼくらは 最近それを越えてしまった
それは テレビができた頃からか 新幹線が できた頃からか 電車をやめて 歩道橋をつけた頃からか
とにかく 限界をこえてしまった
ひとまず その限界まで戻ろう 戻らなければ 人間全体が おしまいだ
企業よ そんなにゼニをもうけてどうしようというのだ
なんのために 生きているのだ
今度こそ ぼくらは言う
困まることを 困まるとはっきり言う
葉書だ 七円だ ぼくらの代りは 一銭五厘のハガキで来るのだそうだ
よろしい 一銭五厘が今は七円だ
七円のハガキに 困まることをはっきり書いて出す 何通でも じぶんの言葉ではっきり書く
お仕着せの言葉を 口うつしにくり返して ゾロゾロ歩くのは もうけっこう
ぼくらは 下手でも まずい字でも じぶんの言葉で 困まります やめて下さい とはっきり書く
七円のハガキに 何通でも書く ぽくらは ぼくらの旗を立てる ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは赤ではない 黒ではない もちろん白ではない 黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ ぼろ布端布(はぎれ)をつなぎ合せた 暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに その旗を 物干し台や屋根に立てる
見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ ぼくら こんどは後(あと)へひかない
(8号・第2世紀 昭和45年10月)
はなもり やすじ 編集者 1911 – 1978.1.14 兵庫県神戸市に生まれる。東大在学中、扇谷正造、杉浦明平らと帝大新聞の編集に携わり、戦後昭和二十三年(1948)「暮しの手帖」を創刊、雑誌の全面に花森の手と息吹がかかっていた。 掲載作は、昭和四十五年(1970)十月「暮しの手帖」第2世紀8号に掲げた胸にしみるマニフェスト
by saitoru1960 | 2016-07-12 20:45 | 心にのこる

雪かき(内田樹)

仕事

「雪かき作業」をする人は朝早く起き出して、近所のみんなが知らないうちに、雪をすくって道端に寄せておくだけです。
起き出した人々がその道を歩いているときには雪かきをした人はもう姿を消している。だから、誰がそれをしたのか、みんなは知らないし、当然感謝される機会もない。

でも、この人が雪かきをしておかなかったら、雪は凍り付いて、そこを歩く人の中には転んで足首をくじいた人がいたかもしれない。そういう仕事をきちんとやる人が社会の要所要所にいないと、世の中は回ってゆかない。

「青い鳥」を探しに行く人たちには、どうもこの「雪かき作業」に対する敬意がいささかかけているのではないかという気がします。むしろ、そのような散文的な仕事に対する嫌悪や侮辱に動機づけられて、「ここではない別の場所」にふらふらとさまよいだしてしまう。

若い人がよく言う「クリエイティブで、やりがいのある仕事」というのは、要するに、やっている当人に大きな達成感と満足感を与える仕事ということです。でも、「雪かき仕事」は、当人にどんな利益をもたらすかではなくて、周りの人たちのどんな不利益を抑止するかを基準になされるものです。だから、自己利益を基準に採る人には、その重要性が理解できない。

もちろん、僕は「みんなに雪かき仕事をしろ」というようなことを言っているわけではないのです。自分の成功を求める生き方と、周りの人にささやかな贈り物をすることを大切にする生き方、これはどちらも社会にとっては必要です。

両方のタイプの人がいないと社会は立ちゆかない。そんなことぐらい僕だってわかっています。だから、どちらかに決めろといっているわけではありません。

ただ、仕事について、「自己利益の最大化」を求める生き方が良いのだという言説はメディアにあふれていますけれど、「周りの人の不利益を事前に排除しておくような」目立たない仕事も人間が集団として生きてゆく上では不可欠の重要性を持っているということはあまりアナウンスされない。そのことの危険性についてご注意申し上げているのです。
by saitoru1960 | 2016-04-13 05:52 | 心にのこる
毎日新聞 2015年12月02日 東京朝刊

 豊かさとは、リッチにして幸せなことである、と物の本には書かれている。では幸せとは何なのか。今に満ち足りていること。と僕は考えている。あんたの幸せ度は今何%位か、と森の原人バラ(、、)に問うたら、70%という答えが即座に返ってきた。

 バラは富良野に移住して10年。
 心許した友であり、森の中でしばし哲学を語り合う。あんたの幸せ度は?と問うて来たから、80%と僕は答えた。元々楽天的性格であるせいか、逆境の時も空腹の時も、あの戦時中も貧困の最中でも僕は割合現在に満足し、幸せだなあと感じてしまう。貧しい時代の幸せを、貧幸(、、)という言葉で呼ぶこともある。世間の人は自分の幸せ度を一体どのくらいだと思っているのだろう。そう聞いたらバラは少し考え、40〜50%位と感じているのではあるまいかと言った。

 科学が日に日に発達し、体温計やら血圧計、体脂肪計などという複雑な計器まで発明されるこの世の中に、人の幸福度を計測する「幸せ計」というものが何故出来ないのだろうとつぶやいたらバラはうーんと考えこんだ。幸せ度は何をもって計れるのだろう。

 眠りの深さ、満腹度、便通の良好。周囲との愛の交歓。未来への安心。今日一日がうまく過ごせたこと。そういうデータを総括計算し、ボタンを押せば今日の幸せ度が数字で示される。これだけ科学が発達したんだからそれくらい簡単に出来るんじゃあるまいか。預金残高より今我々が求めるものではあるまいか。そう言ったら再びバラはうなった。

 風の音がこずえをゆすって過ぎる。

 そうかもしれない、と彼がつぶやいた。

 アインシュタインは相対性理論を解明したときと、一週間続いた便秘が解消したとき、どっちにより幸せを感じたのか。

 それは便秘だろう、と僕が言い、だよねと彼が大きくうなずいて、僕らはちょっと幸せになった。
by saitoru1960 | 2015-12-02 06:23 | 心にのこる

奥村先生

小学校6年の2つのクラス合同で同窓会が開かれる。
奥村先生は昭和7年生まれだった。
病院に行っても悪いところは一つもない、と話されていた。
面影は残っているけれど、やはりおじいさんだった。
こっちの方が全く年をとってし変わり果ててしまっているにもかかわらず、名前を想い出してはうんうん、というような表情をしていた。
いつまでこんなことができるのだろう。
岸本さんも、代わりないようだった。
四柳さんが数年前に自殺しているというのには驚かされた・・。
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by saitoru1960 | 2015-10-03 17:04 | 心にのこる

高倉健のこと

さらば、沈黙の俳優  小田嶋 隆
バックナンバー 2014年11月21日(金)

俳優の高倉健さんが11月10日に亡くなっていたことが発表された。
死因は悪性リンパ腫。83歳だった。
私自身は、高倉健さん(以下敬称略)について、特別な思い入れを抱いている人間ではない。
同世代の男の多くが、この人のかなり熱心なファンであったことを思えば、むしろ冷淡な組だったと言っても良い。
それでも、40歳を過ぎた頃から、この人の演技(というよりも、演じている役柄に対してかもしれない)に、共感を抱くようになった。
その「共感」については、あとで詳しく説明する。
とにかく、ひとことでは説明しにくいタイプの俳優だった。

映画は私の弱点だ。
演技も苦手分野だ。
大学に入って間もない頃、まわりにいた映画通の毒気にあてられて、
「オレは映画なんか見ない」
と、変な決意を固めて以来、映画とは縁の遠い人生を送って、ここまで来てしまった。

バカな意地を張ったものだと思う。
わがことながら、自分のケツメドの小ささにあきれている。後悔もしている。
なので、これから先の余生は、未見の名作を山ほど持っていることを財産と考えることにして、せいぜいブルーレイなどを集めてみようかと思っている。

話を戻す。
若い頃は、正直な話、高倉健という人の存在を、うとましく思っていた。
もう少し具体的に言うと、高倉健演じるところの「黙って耐える男」の重苦しさが、どうにも苦手だったのだ。
理由は、私自身が、黙ることや耐えることの大嫌いな若者だったからだ。

以下に述べることは、バカな若いヤツが昔考えていたことだと思って、ぜひ大目に見ながら聞いてほしいのだが、私は、黙っている男は要するにアタマが悪いのだと思っていた。
耐える男についても、単に意気地が無いのだろうと考えていた。
うん。
実にバカな見方だ。
でも、仕方がないのだ。

不当に高い自尊心を抱きながら、その自尊心に見合う確固たる自信を持てずにいる若い男は、その種の偏見で自分を支えるほかに生きて行く術を見い出すことができなかったわけで、あいつもあれで悪気があったわけではないのだ。ゆるしてやってくれ。 

いつだったか、映画通の知り合いと話をしていて、
「日本の俳優が外国の俳優に比べて演技力の上で見劣りがするのはどうしてだろう」
という話題が持ち上がったことがある。
その時に、わたしたちは、二つの暫定的な結論を得た。
ひとつは
「そもそもわれわれ市井の日本人が、普段から感情表現の希薄な能面人格である以上、俳優さんの演技も《おさえた演技》に着地せざるを得ないのではないか」
という分析で、もうひとつが
「高倉健のせいだ」
という臆断だった。

つまり、高倉健が、その一連の主演作の中で展開している「無言・無表情・棒読み」の演技が、長年にわたって高評価を与えられてきていることが、後進の俳優に良からぬ影響をもたらした、という仮説だ。
いや、半分はその場の冗談だ。
が、あらためて考えてみると、この「高倉健デクノボー説」は、なかなか示唆的な内容を含んでいる。

高倉健は、あまり演技をしない。
というよりも、彼の主演する映画は、プロットそのものが、「素の高倉健」を想定して作られている。
つまり、健さんには、役柄になり変わるための自己変容としての「演技」はそもそも求められていなかったということだ。
その「役柄」も、ごく若い頃の任侠映画の時代を除けば、ほぼ一貫している。
あえて言葉にするなら「浮世の義理に絡め取られて、余儀なく罪を着ることになった男」である。

「罪」は、不運な過失致死であったり、人助けのための勇み足であったり、正当防衛の刃が当面の敵を殺傷せしめるに至った運命であったり、いずれ、「身の不運」に類する行きがかりなのだが、この罪を、高倉健は、潔く引き受け、黙って法の裁きを受け容れる。
言い訳はしない。申し開きも自己主張もしない。ただただ粛々と懲役に服する。
出所しても態度は変わらない。
口さがない世間の陰口や、隣近所の無理解にも、健さんは、一言たりとも弁解をしない。
前科者の弱みにつけこむ悪党のいやがらせや、被害者の逆恨みも甘んじて受ける。抵抗はしない。
で、この「罪を得た者の忍耐の生き方」が、映画の隠れた主題であり、銀幕に流れる感情を増幅する仕掛けにもなっている。

かくして、同じ役柄を演じ続けるうちに、ある時期から「高倉健」は、黙っているだけで、「耐える男」「胸にある思いを押し殺している男」「罪を償う男」「過去に負った傷を抱き続ける男」を表現できるようになる。
というよりも、実態としては、観客の側が、高倉健の無表情から、あらゆる抑圧された感情と、男の美学と、罪の苦しさと、人生のやるせなさを読み取るリテラシーを獲得したわけで、要するに、健さんは黙って立っていれば良かったのである。

ふつうの男が黙って無表情な顔をしてみせたとして、世間は、必ずしも男の美学を感じ取ってくれたりはしない。
「なんだよ薄気味悪いな。いきなり黙りこみやがって」
「どっか悪いのか?」
「なんだその顔は。文句があるのか?」
「どうしたの? おなかへってるの?」
「女の子の前で不機嫌な男ってサイテー」
「なんや辛気臭い。ゆうことあらへんのやったらいねや」
かように、われらパンピーの沈黙はあまり評判が良くない。
無表情も、だ。
沈黙に色気を添え、背中に哀愁を装備するためには、やはり何らかの特別な内実が想定されていなければならない。

高倉健には、それがあった。
これは、なまなかな達成ではない。
というよりも、ほかの誰にそんなことができただろうか。
まるで、「不射之射」ではないか。
これは、深読みと言えば深読みなのだが、高倉健演じるところの「前科を背負いながら忍耐の時間を生きる寡黙な男」の姿は、「敗戦というトラウマを抱えながら復興にいそしむ戦後日本」の自画像と、奥深いところで響き合っていたはずなのであって、だからこそ、昭和の観客は、健さんの沈黙の底に沈殿している「万感の思い」を、ほとんど即座に共有することができた、と、私はそういうふうに考えている。
あの演技は、「昭和」のエートスが可能ならしめた、ひとつの奇跡だということだ。 

玉音放送のラジオ音声の中にあった「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」という一節を引用するまでもなく、敗戦から20年ほどの日本の歴史は、「耐える」ことと「言い訳をしない」ことを自らに課することで、復興を果たしてきた道のりだった。
そういう意味で、高倉健の存在と演技は、復興と贖罪の時代と不可分なものでもあったのだ。
時代が平成に切り替わり、西暦が21世紀を数えるようになると、時代のモードは、もはや「復興」ではない。

敗戦のトラウマも、戦争の惨禍も空襲の記憶も、既に遠い昔のまぼろしになっている。
「罪」についても、
「あれって、冤罪じゃね?」
「ってか、自虐史観ってあり得なくね?」
みたいな調子で、なかったことにしたがる人々が現れてくる。
と、健さんの沈黙から、「万感の思い」を読み取る観客もおのずと数を減じないわけにはいかない。

「高倉健って、大根だよね」
「あの人って、マジで芝居してるんだろうか」
「ってか、コミュ障だよね」
「まあ、コミュ障かどうかはともかく、コミュ力は極力低いな」
と、おそらく、20代ぐらいの若い人たちの中には、そんなふうに思っている映画ファンが、少なからず含まれているはずだ。

たしかに、あの演技は、観客の側が行間を読み取ろうとする努力を放棄すると、ただの棒読みに化けてしまうテのものだ。
と、演じる側と見る側の間に共有されていたものが失われた時、寡黙な名優は、大根に戻ってしまう。
なんと悲しいなりゆきであろうか。

21世紀は、忍耐や沈黙の時代ではない。
贖罪や自責が流行する局面でもない。
そういうものは、流行らないどころか、どうやら、全方位的にうとまれている。
大人の男に求められる資質は、リーダーシップであり、アカウンタビリティであり、グローバルなマナーであり、コミュ力であり、ディベート力だ。
であるからして、弁解しない男はどんどん罪を着せられるだろうし、説明しない男は誰にもわかってもらえない。
幸福の黄色いハンカチは風に乗ってどこかへ消え果て、古い恋人は、黙ってイエローカードを提示する。
健さんには帰る場所が無い。

高倉健さんの訃報が伝えられた同じ日の夕方、政治の世界では、安倍晋三首相が衆議院を解散する決意を表明した。
夜になって、安倍首相は、テレビ各局のニュース番組をハシゴして、解散の理由を説明した。
この原稿は、解散の是非や、アベノミクスへの賛否を述べる場所ではないので、その話は書かない。

ここでは、安倍さんのしゃべり方の話をする。
率直に言って、私は、追悼企画の中で再生されていた高倉健のセリフまわしと、夜のニュース番組で解散の真意を語る安倍さんのしゃべり方を聴き比べて、その二つが同じ日本語であるようには思えなかった。

寡黙と多弁。
寡言と早口。
低音と高音。
静穏と狂躁。

健さんの語りと、安倍さんのしゃべりは、あまりにも対照的だった。
安倍さんは、早口で自説をまくし立て、キャスターの質問には、半ば喧嘩腰で両手を振り回しながら反論を浴びせていた。

TBSの「ニュース23」という番組の中で、安倍首相は、秘密保護法について尋ねられると、
「(秘密保護法は)工作員やテロリスト、スパイが相手で、国民は全く関係ない。例えば(表現の自由が侵害されて)映画が作れなくなったら、私はすぐ首相を辞めてもいい。報道が抑圧される例があったら、私は辞める」
と述べている。
言っていることの当否は措くとして、「○○だったら私は辞める」みたいな言葉が脊髄反射で出てきてしまう精神のあり方(というのか、しゃべり方のマナー)に、私は、暗澹たるものを感じずにはいられなかった。

健さんの演技を通じて復興期の人間が共有していたのは、「激しない」ということだった。
困難な時代の人間は悲憤慷慨しなかった。
人々は、耐えることを尊び、忍耐する人間の演技を高く評価した。
あるいは、グローバルなスタンダードで評価すれば、高倉健は大根役者であったのかもしれない。
が、私たちの国に、演技をしない役者が評価された時代があったことを、私たちは忘れるべきではない。
誰もが、感情を押し殺し、自分の足もとを見て耐えていた時代、たしかに、高倉健は名優だったのだ。
たやすく激高し、なにかにつけて声を荒げる政治家を見るにつけ、そう思う。
by saitoru1960 | 2015-03-06 05:13 | 心にのこる

心動かされたことを忘れぬように


by saitoru1960