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ある医師の死

「はあーい、つぎー。さいとうさーん。どおぞおー」
と、いつもの元気な声が診察室から聞こえてくるはずだった。

40才をむかえ、ボールを投げると右の肩が痛む状態が続いたため、わたしは昨年(’01)3年ぶりに佐藤整形外科診療所を訪ねた。

いまさら陸上の試合に出てやりを投げるわけでもないので、ほっておいても日常生活に支障はなかったのだけれど、石野先生に会って久し振りに話を聞く事で、自分自身加齢のせいだと感じていることを納得できそうでわざわざ出かけた。

「はい、つぎのひと。どうぞ」
のどがつぶれたような明らかに以前とは違う弱々しくかすれた声が診察室から聞こえてきた。いぶかしんで診察室のドアを開けると、満面笑顔で小さなたれ目のいつもの石野先生が、

「おー、せんせー、ひさしぶりやねえー」
と、椅子に座って懐かしげに迎えてくれた。先生の屈託のない笑顔とは正反対に、わたしは瞬間的に思考が少しの間止まってしまった。先生の体の大きさが急変していることに愕然としたのである。

喉の手術をしたという事を人づてに聞いてはいたのだけれど、まさかここまで変わり果てているとは思ってもみなかった。
前年肺ガンで死んだ父の姿が石野先生に重なった。

頬骨が出て背中が少し曲がり、髪の毛がパサついている。皮膚の色に元気がなく、しわが増え深くなっているのが一目でわかった。
その時わたしは 「先生具合悪いんですか」 とすぐに聞くことができなかった。

聞いた所で、「いやあ、おれなあ、肺ガンになってもうてん」と先生なら、いつものように軽く豪快に笑い飛ばして答えてくれたかもしれない。そう返してもらったとしたら、わたしはそれにどういう言葉で返す事が出来ただろうか、と今更ながら考え込んでしまう。

それほどまでに久し振りに会った石野先生の姿は変わり果ててしまっていた。

「ここの骨がひっついてないねん。大抵の人はひっついとんやけど、100人に1人くらいはこんな人がおるんや。まあ、そのうち筋力がついてきたら慣れてきて痛みもなくなるやろうから、マッサージようして、少し量減らして練習しい。でも、筋力はしっかりつけなアカンで」

高校2年の冬、陸上競技の練習に明け暮れていたわたしが、どうしても痛みのとれなかった腰を診てもらったのが石野先生との出逢いであった。

「痛かったら練習を止めて、痛みがなくなったら練習を始める」、という大半の整形外科に診てもらいに行くと出される指示は、「練習しなければ、全国インターハイには出られない」、という単純な公式をアタマの中心にすえ、全国インターハイ出場を夢見る17才の高校生には何の薬にもならなかった。

そんな時代、石野先生の勤める佐藤整形外科診療所だけは本当の薬を調合してくれていた気がする。その薬は切れる事がなく、ひとたび患者の心に入り込むと一生効力のある持続性の強いものであった。

「古代人の人骨の中にも骨折して治った痕が残っているものがあるんや。ギブスもない時代でも動かさへん工夫をすれば、骨折はキレイに治んねん。骨が折れたからって絶対ギブスをまかな治らへんわけちゃう。要は本人の気持ちの問題やな。」

大学を出て23才のわたしが神戸高校に赴任すると、石野先生は今度、自分が顧問となる陸上競技部のOB会副会長という立場にもなったので、以前にもまして話を聞けるチャンスが増えた。

「おれなあ、なんか走んの好きやってん。3年なって出れる試合がなくなるやん。でも、おれなあずっーっとクラブ行って練習しとったんや。卒業式の朝も部室行って着替えてグラウンド走っとった。『引退』とかいうとなんかカッコええみたいやけど、好きでやっとったらそんなん関係あらへんやろ」

陸上競技に取りつかれている者ならば、それぞれ原点に持っている「何故陸上競技なのか」という命題への答えを、石野先生はいつも何かの話の中で示唆してくれていた気がする。

ある時、神戸高校の学年講演会で話をお願いしたことがあった。講演が始まってすぐ、ざわついている生徒達に注意を促そうと、担任教師が生徒達の中に入って行った時、
「そこでウロウロ回ってる先生、ほっといたって。きかへんもんは注意しても聞くふりするだけやから。おもろかったらほっとっても聞くやろうし」
と、逆に先生の方に壇上から注意していたのも先生らしい言動であった。

神戸高校で5年勤めた後、わたしは青年海外協力隊に参加し学校を休職する形になった。わたしのとった行動に理解を示してくれる方々が多くいた反面、「陸上競技部の生徒達をほったらかして」、と間接的に非難された意見が聞こえてきたこともまた事実であった。

青年海外協力隊の訓練所で3ヶ月間出発前の事前訓練を終え、出発直前に先生を訪ねると、
「おー、せんせいー。おもろいとこいくんやって。えーなあ。ほんで、なにすんのん」
と屈託なく訊ねてくれた。訓練だけでも参加できて貴重な宝物ができました、と3ヶ月間のことを話すと、「それはええなあ。そんな体験はめったにできるもんちゃうからなあ。がんばってこいよお」 と、先生は自分事のように面白がり送り出してくれた。

2年後帰国して訪ねた時、
「へー、そうかあ。おもろいなあ。メジャーとストップウオッチがあったらどこでも陸上はできるかあ。どこでも走るん好きなんはおるんやな。ほー」

2年間あったことをあいづちうたれるままうれしくなっていろいろ話すと、2年間を反芻しながら、一つの体験が発酵した形でまとまっていった。

日曜日、王子陸上競技場で高校生の試合がある時、ふとスタンドを見ると石野先生が座っていることがしばしばあった。通院してきた選手のことを気にかけ、痛み止めの注射をもち様子を見に来ているのだった。

放課後の練習にどうしても出たい時には、診察時間外でも、朝早く病院を訪ねると関係なく診察してくれた。

全盲の母が娘と手をとりあって100kmマラソンを完走したドキュメンタリーを観て感動し、私も、と1年かけて100kmマラソンへ挑戦した年があった。多い時は月間300kmも走りながら、準備を整え、あと1週間という所まで来て突然足の甲に痛みが生じた。

自分の人生の中でもかなり大きなポイントとなっていた挑戦だったので、迷わず石野先生にすがった。痛み止めの注射を打ってもらい、挑戦の話をすると、また笑って「そうかあ。おもろいなあ。がんばってこいよお」と送り出してくれた。

すると、なにも故障などなかったかのように初めての100kmをボロボロになりながらも気持ちよく完走することができた。感謝の気持ちで一杯になったのはあれで何度目だっただろうか。

インターネット上で、神戸市内患者おすすめ病院を紹介しているホームページがある。パルモア病院(産婦人科)などと共に、
「スポーツマンの夢を大切にして治療やアドバイスをしてくれる。庶民派。見立てが的確で、いい病院や先生を紹介してくれる。20数年信頼して自分も教え子も診ていただいている。先生のお陰で全国大会優勝、日本代表多数輩出。」
と佐藤整形外科が紹介されている。まさに、アスリートの立場に立って診察してくれる先生であった。
診察しながら石野先生は、その選手の体を借りて走っていたのかもしれなかった。

告別式は、「お別れ会」となっていた。あくまでも、俺は俺のやり方でやる、という先生の強い意志を感じた。
お通夜には当然ながらお医者さん関係者が多く見受けられ、神戸高校陸上競技部OB会の方々も多く参列されていたが現役アスリートの姿は見ることができなかった。

アスリート達は先生の「死」さえ知らされることなく、次に自分が「薬」をもらいに行った時、初めて愕然と肩を落とすことになるだろう。もう、心の薬をくれる人がいないことに初めて気づくことになるのだ。

告別式に、故人のけじめとする部分と、残されたもののけじめとする部分の両面があるならば、残された側の一番大切な部分(アスリートの心)がぽっかり抜け落ちている気がして、その分お別れの寂しさが増した。

「~古いか新しいなんて間抜けな者達の言い草だった、俺か俺じゃねえかでただ命懸けだった~やるなら今しかねえ、やるなら今しかねえ、66のおやじの口癖はやるなら今しかねえ~」

30分のお通夜が終了し、私は長渕剛の歌をカーステレオで幾度も繰り返し聞きながら家路についた。自分の心に確実に大きな穴がひとつあいたことを、歌詞を口ずさみながら感じ始めていた。

高校の時に診察後もらった薬はモビラート。大切に大切に少しずつ使い、これさえ塗っていれば快方に向うと信じながらマッサージしていた。それから約15年。昨年行った時も帰りにもらったのはモビラートであった。いいものはいい、簡単な理由だった。

長渕は歌う。「~あたり前の男に会いたくて、しかめっ面したしょっぱい三日月の夜~」

石野先生にはなにもかも“あたりまえ”だっただけなんだろう、と考えると、余計に気持ちが高ぶり、キリキリと胸が締めつけられてきた。

頭の中がカラッポになるよう、張り上げられるだけの声をしぼりだし、叫ぶように歌いながら帰った。

帰宅後、遅い夕食をとり、小学2年生の娘と風呂に入りながら、 「その先生はこんなこといろいろ教えてくれたんや」 と、先生から聞いたいろいろな話を子供相手に一方的にしていると、こみあげてきて涙声になってしまった。

「そしたらおとうさんがこんどはおしえてあげたらいいやん」 と、娘はいつもと様子の違う父の態度に、どう受け止めたのか優しくそう話してくれた。

「そうやな。そうやな」 と答え、娘が出ていった風呂場で一人シャワーを浴びながら涙を流し続けた。

石野先生、いつかこう話してくれましたね。

「わしのおやじなあ。すごいんや。死ぬ時にわしら呼んでわざわざ大切にせーよゆうた言葉があんねん。なんやと思う。『ありがとう』、『すみません』、『どうぞ』の3つや。おれなあ、感動してもてん」

最後に先生はどんな話をしたのでしょうか。
今までの感謝の気持ちを先生には伝えようもありません。
「ありがとうございました」という言葉を文字にすると薄っぺらになってしまいます。

その気持ちはこれからの人生の中で行動で示していかなければいけない、それが石野先生から学んだことへのお返しだと思っています。

ゆっくり眠って下さい。そして、いままでどおり遠くから見ていて下さい。おつかれさまでした。
by saitoru1960 | 2002-07-10 15:33 | ひとりごと

モルディブから帰って

1988年、7月。
日本を離れ、ジメついたバンコクで2泊したのち、私はコロンボに到着した。

コロンボ空港で出くわした、何をしに来ているのかわからないざわざわうごめく数多くのスリランカ人におののき、市内へと向かう車の無鉄砲な飛ばし方に、思わず車の中で前座席のヘッドレストあたりを強く握りしめていた。

泊まったのはレヌカホテルだった。ついたその晩、レヌカのレストランで夕食をとる時、スリランカの協力隊関係者が、 「世界で一番辛いカレーはスリランカカレーですよ。とにかく、口、胃、肛門、と3度辛いですから」 と、笑いながら自慢げに話すのを少しだけ煙たく聞きながら、一人部屋に戻り硬いベッドに横たわった。天井にはやもりがいて、「ケケケ」と不気味に鳴いていた。

一緒に日本を離れたスリランカ隊員が翌朝、レヌカホテル近くの食堂でシンハラ語を巧みに操り、エッグホッパーなんかを注文するのを見て、「すごいなあ。この人達はもう普通にここの人としゃべってるのかあ」その時、ディべヒ語を何も知らない自分に対して、不安感が急激に沸き起こってきていた。 

エアランカに乗り込み、安達調整員の引率でいよいよ2年間帰る事のできないマーレへと向かった。

飛行機の窓から眼下のインド洋を眺めながら、フルレ空港到着のため高度を下げ始めた時、 「陸地が見えないのだけれど、ちゃんと着陸できるのだろうか」同期の浅川・卓球隊員に無意識のうちに話しかけていた。あれからもう13年経つことになる。

マリンドライブは舗装されている所が一箇所もなく、雨が降ると中国製自転車でしぶきを上げながら、深い水たまりにゴムぞうりを履いた足をつけないよう、三角乗りのようなこぎ方でペコッ、ペコッとペダルをこいだものである。

学校は休校になる事もあったし、小さな子供達を迎えにくる父親達は、 「ほんとにもう・・」といった表情で自転車のサドルに子供を座らせ、自分はズボンのすそをたくし上げて水たまりの中へバサバサ分け入りながら自転車を押し家路につく、というのが当時よく見かけた風景であった。

中国製の自転車には夕方を過ぎると、「バッティ」と呼ばれる簡易ライトをつけなければ、「NSSに捕まえられる」と陸上クラブの仲間に脅かされていた。

このバッティが曲者で、なかなかいうことを聞いてくれなかった。電池(バッティリ)は新品なのにつかなかったり、ついていても次第に消え、こおれい!、バシっと叩くと復活したり。

「消えていてNSSに出くわした時は、バシバシ叩くふりをしたらいい」と対処の仕方を教えてくれたのもクラブの仲間であった。

派遣当時のオフィスは、イスドウーという名前のヘンベール地域にある一軒家であった。

 海に近かったため水はかなり塩っぽかったが、庭にはジャンブロールの木もあり、こじんまりと焚き火ができるスペースもあって、隊員にはおおむね好評であった。

 暇な午前中はオフィスに出向いて、マリアンと、キヒネ?、とたわいもない話をしたり、1週間ほど送れて届く朝日新聞を読んだりしてのんびり過ごしたものである。

このイスドウー前の家ではグラを売っていた。

任地到着後、最初のホテルは、62-1の軍司さんの案内でマリンドライブにあるビーチカフェだった。ドーニのおっちゃん達がムンドウ姿でわさわさいて、強烈な印象を受けた。

薄汚い店内では天井にファンカが熱気をかき回していて、小さい皿に乗ったさまざまなヘディカを、おっチャン達が両肘をテ-ブルにつき、カルサを飲みながら口にほうばっていた。

軍司さんはバジヤを、人差し指と中指で明らかに売り物に対しては強すぎる力でグイッと押し、暖かさを確かめていた。あまりの押し方に店のおじさんに思わず同情してしまったが、ドーニのベーベ達は同じような事をごく普通にしていた。

「これはバジヤって言います。バジヤっていうのは女の子のあそこっていう意味もありますから、気をつけてね」、と来たばっかりの我々に軍司さんは教えてくれた。

ふーん、そうなのかあ、と初めてのバジヤを口に運び、おー結構うまいやん、と食べた。

「もう一つ、こっちの丸いのがグラ。バジヤとグラはヘディカの代表みたいな存在ですよ」と、またまた軍司さんは皿を右手で取ってくれ、グラの硬さは店によってまちまちである、という事も教えてくれた。
ビーチカフェで初めて食べたグラは、そう硬くもなく、冷たかった。

イスドウー前のグラは私のお気に入りであった。

メッセンジャーボーイ(ディべヒ名=ピヨーン)のサッタールが、フラッとそこの家に入っていき、スリランカから届いた英字新聞なんかを敷いたプラスティックのボウルに、ばさっとグラを入れ買ってくるのだった。

そのグラ屋は普通の家で、なくなったらそれでおしまいという売り方のため、いつでも買えるというわけではなかったが、サッタールが頃合を見計らって買ってくるグラは、あたたかくホカホカで、ビーチカフェのものよりは小さく硬かったが、少しこげたような味がこおばしく旨かった。

「エーイ、サイトウ、キークラニー?」とマリアンがむこうから冗談混じりに話しかけてくるまでにはかなり時間が必要とされたけれど、オフィスで日ながこのグラをかじりながらマリアンの近くで過ごしたので、他の人達よりは早くうちとける事ができたのかもしれなかった。

日本に帰ってから、バジヤもグラも一度も食べていない。
日本のインドレストランで食べるサモサはバジヤに似ているとはいえ、やはりサモサであり、到底私の好きなバジヤの味ではない。

カーシとマスの入ったグラやバジヤはやはりモルディブ独特の食文化である。
マスリハがモルディブ料理の第1代表なのだろうけれど、ヘディカで朝昼兼用の食事を取り、あとは夜に食べるマスリハかガルディア(こっちが第1代表かな?)しかないモルディブ食文化において、このヘディカの存在はかなり大きい。

とにかく種類が多くて、何にしようかな、と考える余地がヘディカにはある。ここがいい。
聞く所によると、現在ヘディカは衛生面から政府の指導が入り、ショーケースみたいな中に入っていて、見て選んで注文するというような形で売られているようである。

二本指でグイッと押し、あったかさを確かめるといったような下品なおこないはもうないのだろう。
確かに清潔ではあろうけれど少し寂しい気もする。

マーレの時間の中で気に入って通ったホテルもいろいろ変化していった。
どこの店にも独特の味や感触があり、捨てがたいものがあった。
ドンケオカジュー、ロッターリハヤ、ビスキーミヤ、あかいぐるぐる(!?)、ビスガンドウ、ラッサン、カラーファニ、思い出の食べ物や飲み物はあげるときりがない。

風景は変わってしまったかもしれないけれど、いつか再びマーレを訪れた時、少しはにかんだような彼らの笑顔と、ヘディカの味だけは変わっていない気がしている。
by saitoru1960 | 2002-07-08 15:30 | モルディブ

心動かされたことを忘れぬように


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