<   2007年 02月 ( 6 )   > この月の画像一覧

『キャプテン~1秒をひきずらせているもの~』

「俺もこんな風に競技を楽しむことができていたら、もう少し長く競技を続けられていたかもしれない」
歓喜に沸く学生達と、抱き合ったり、握手したりしながら、
「でも、俺にはあれでよかったのだ」
と、自分自身に言い聞かせ、若者の凝縮されたエネルギーが炸裂しているスタンドから、母校筑波大学陸上競技部の監督に就任したばかりの尾縣貢は、国立競技場のゴール付近を見つめていた。
2001年、5月。
女子の総合優勝、男子の2位に沸くスタンドで、ちょうど20年前のその瞬間のことを、尾縣は思い出していた。

1981年、5月。国立競技場。
関東インターカレッジの最終日は、時間の経過とともに曇天に変わり、昼過ぎには雨が降り始めてきていた。
その変化は、筑波大学の35年振りに巡りくるはずだった、男子の総合優勝の行方をあたかも象徴するかのような、鈍く暗い変わりようであった。

筑波大は東京教育大から名前を変えての5回生が最高学年となり、インターハイで活躍した者も数多く入学し、コーチ陣の熱意的な指導を部員全員が受けながら、いよいよ総合優勝か、という言葉が他の大学関係者からも漏れ聞こえてくるほど、総合力では確固たるものが形成されてきていた。

キャプテンは尾縣貢。
中学でハードルの全国チャンピオンとなり、小野高校に進んでからも順調に記録を伸ばし、高校3年ではインターハイ110mHで優勝、400mHは4位という成績をひっ下げて筑波大に入学していた。
当時、高校のハードルはジュニアハードルと呼ばれ、現在の110mHより高さは7,6Cm低いものであった。そのたった7cmが尾縣には禍した形になってしまい、尾縣は大学2年から、十種競技を自分の生業とし、まさに生活の全時間を練習に注ぎこんでいた。
自他共に認める努力型の十種競技者で、競技にかける熱意と、リーダーシップ、人柄、など総合的に見て、キャプテンを決める時に誰もが尾縣しかいない、とすんなり決めることができるほどであった。

インカレ最終日。順天堂大をあと3点まで追い詰めた筑波大のスタッフは、35年振りの総合優勝を十中八九確信していた。
残すのは、筑波大伝統のマイルと十種競技の2種目のみ。お膳立ては整っていた。

十種競技の七種目め、棒高跳で時間が予定外まで伸びた影響で、インカレの最後を飾るのはマイルリレーではなく、十種競技の1500mになってしまっていた。
青写真では、十種競技で総合優勝をすでに決定づけ、最終種目になるマイルリレーでは他校を大きく引き離しての、ウイニングランになるはずであった。
そのマイルでまさかが起こった。
3走の1年生小池がバックストレートで転倒したのである。まさに、まさかの出来事であった。
1位順天堂大6点、6位筑波大1点の加算。逆に得点差は8点に開いた。
 
俄然、キャプテン尾縣が出場している十種競技の点数を部員の誰もが気にし始めた。

当初から、尾縣と同4年の斎藤信哉で、十種競技は1、2位を独占し、大量得点を得るという計算であった。
斎藤は高校時代、五種競技の高校新記録を樹立しながらも大学2年から不調が続き、ようやく最終学年を迎え、本来の天才的な混成競技を展開してきていた。この関東でも1500mを残しながら、無難に走れば1位は確定していた。
一方のキャプテン尾縣である。
3年次には、関東、全日本を制し、学生界では頂点に登りつめた感があった。ところが、最も重要な、キャプテンとしての誇りと自負心をかけて臨むべきこの大会に関しては重大な故障を抱えていた。
「インカレに出発する前日、いつ抱えられて帰ってきてもいいように、いつも以上に自室の掃除を丁寧に済ませてきた」
と、後日、本人が語るほど故障の具合は芳しくなかった。
 
順天堂大の十種は5、6位が確定し、3点の加算で、この段階で筑波大との得点差は11点。
9種目を終えた順位は、1位斎藤(筑波)、2位須々田(法政)、3位尾縣(筑波)。
このままの順位で終わると筑波大の得点は10点。それでは順天堂大に追いつかず、35年振りの夢は夢で終わってしまう。同点の場合は、優勝種目の数で順天堂大を上回っていたため、筑波大の優勝となる。
キャプテン尾縣は法政の須々田を抜き、2位になることを絶対条件として使命を課された。
その上、1500mの尾縣と須々田の記録をベストタイムで比較すると、約十秒尾縣が早い。合計得点で追い抜くことのできるギリギリのラインであった。
これほどまで過酷に、自分の存在価値を確かめられる瞬間になるとは、ついぞ尾縣自身も想像していなかった。
 
怒号渦巻く1500m。こちらの望む計算以上に須々田は離れてくれない。
尾縣がゴールし、約十秒後、須々田がゴールした。
スタンド下でストップウオッチを手に、「須々田、離れろ」と念じながら凝視していた後輩達は、ゴールタイムと、手にした得点表を急いで幾度も交互に見ながら、須々田と尾縣の合計得点を2度3度と計算した。
歓喜の声はあがらなかった。1秒足らなかった。点数差は6点。

マネージャーの佐竹と混成ブロック1年の宮内に肩を抱きかかえられ、控え室まで帰ってきた尾縣は、心の中で叫ぶように自分を責めていた。

「ダボー、根性なしめ・・。なんでもっとはやく走られへんねん」

10個の種目全てがうまくいくことはめったになく、それゆえに次第に十種競技を人生を重ねたりしながら、選手達は十種競技の虜になっていくところがある。
いくら総合得点が自己最高をマークしても、もう0.1秒早く走っていたら合計は何点になっていたはず、と10個のそれぞれに自戒の念は沸き、仮想の自己最高得点をはじいては、次に進むエネルギーに変えていくのだ。
 
しかし、尾縣に次はなかった。
春には関東、秋には全日本という日程は今と同じである。
当時、全日本インカレは、十種競技だけが事前にある日本選手権の中に組み込まれていて、同じ競技場で同じ時間に、4年間の絆で結ばれてきていた仲間達と共に、自分の全人格をかけ、キャプテンとして、十種競技者としての誇りを剥き出しにした戦いは全日本インカレでは不可能であった。
尾縣には4年の関東しかなかった。
35年振りの総合優勝というお膳立ても整っていた。
それまでの輝かしい戦跡よりも、最後の関東で全て燃やし尽くし、35年振りの総合優勝を決め、全部員で雄叫びをあげることこそが、キャプテン尾縣の4年間の集大成だった。

生理的限界でのタイムなのはわかっていた。そこまで追い込むのが尾縣だ、と部員の多くは知っていた。
35年振りの、しかしながら尾縣にとっては最初で最後の雄叫びをあげる瞬間はやってこなかった。

翌年、36年振りに筑波大は総合優勝を果たした。
1年間蓄積された怒りにも似た歓喜のエネルギーがスタンドに爆発し、今度こそ後輩達は雄叫びをあげた。
その輪の中に、大学院に進んだ尾縣もいた。
尾縣は、スタンドで後輩達と共に喜んではいたが、どこか胸の中に白い部分が残っていた。
その場で尾縣は、キャプテンでもなく競技者でもなかった。

2001年、5月。 
負けたことで、自分の全てが崩れ去った感覚の残るあのインカレから20年。
キャプテンではなく、監督という立場になり、学生には、「総合は結果だ」と言う尾縣の胸には、今もなお、何故あの時、もうたった1秒はやく俺は走れなかったのだろう、という思いが残っている。
by saitoru1960 | 2007-02-24 13:48 | 陸上競技

春野台高校陸上競技部:「一瞬の風になれ」

涙が出た。
本を読みながら涙が出た。
悲しいのでもなく、うれしいということばでも言い表せない、一生のうちに何度もあることではない、胸がいっぱいになる不思議な感情があふれ、文字を読みながら目から涙がにじみ出てきて、にじんだ文字をなおも追いながら読み進んだ。

「リレーで両方近畿に行けんかったら坊主な」、と谷川先生に言われて臨んだ2年の県ジュニア、明石陸上競技場。近畿出場はイコール県で3位以内に入るということ。
4継は大西・斎藤・溝口・瀧本のオーダー。マイルは大西・高田・瀧本・斎藤。それぞれ4人で走ることはそれまで一度もなかったので、県レベルでどのくらいの位置になるかは全く予想がつかず、宣告されたものの現実感のない中で、とりあえずバトン練習を繰り返していた。

4継の2走で3走の溝口にバトンを渡し終え、ゴールから最も遠い第3コーナーから見た、ジャンプしてゴールに駆け込んだように見えた滝本のゴールは、3着に入れたかどうかが全くわからなかった。
マイルの決勝。
アンカーでバトンゾーン入り口に立ち、小野、加古川西の次に走ってくる滝本を待っているとき、横には翌年の全国インターハイ400mで優勝した明南の木村や、4パーで優勝した三田学園の中上が自分の外側に立っていて、もう頭の中は真っ白で心臓はバクバクし続け、無我夢中で走りながらも、右後方に迫ってくる音に耳だけはとぎすまされていた。

高校3年。
神戸地区予選、県大会、近畿大会、すべてが地元王子陸上競技場という巡りあわせだった。

前年、紀三井寺であった近畿ジュニアに初めて臨んだ長田高校リレーメンバーは、明らかに場慣れしない、おのぼりさん状態で、有名な強豪校を見つけては、オーッ、とか、ホウとか言うような反応をし続け、谷川先生との勝負をクリアして2つのリレーで出場したため、長距離の久田まで補欠に入れて、31回生男子6人全員でのお泊り旅行気分が強かった。
最初の4継。谷川先生がオーダーを間違って提出したことに気づかされたのは、招集場で「ながた」と呼ばれた時だった。一走、○○番、慶太が「ハイ」と返事をする。
二走、○○番、「えっ?」。呼ばれたのは自分の番号ではなく、四走・滝本の番号だった。付き添いの高田か久田が谷川先生の所にダッシュし、先生から返ってきた答えは、「それで走り!」だった。
全く練習していないオーダー。
一走慶太から四走滝本へ、最初のバトンパス。滝本が出た。はやい。リードは大きすぎゾーンから2mほど出たところで止まるようにしてバトンが渡る。すでにドンケツ。
瀧本から溝口へ。詰まりすぎ。
アンカーで一人だけ残った第4コーナーで、この全てを見ながら溝口を待つ。
いつもは渡す相手からもらうバトン。慶太と練習していたマークの距離は何足長か縮めたものの、ブルーラインで立って見るスピード感が違う。
出た。「ハイ」の声が聞こえるはずのタイミングなのに聞こえない。ゾーン出口が近づく。
まだこない。ほとんど止まって溝口からのバトンをもぎとる。3走から4走もオーバーゾーン。
遠く走っているほかのチームとの勝負の土台にも上がることなく、なんでやー、とゴールまで走るしかなかった。

ゴールしても他のメンバーと顔を合わせることもなく、競技場の外をユニフォームのまま、とぼとぼ歩いていた。悔しさが頭の中でぐるぐる渦巻いているようだった。
でも、「情けないなあ。入れ替わるだけであんなにもあかんようになるなんて。感覚ができてない証拠やな」、と谷川先生から返ってきたことばはそれだけだった。
オーダー書き間違えてごめんな、ということばは一言もなかった。
でも、だから、リレーの、バトンをもらうときの、「感」を研ぎ澄まさないといけない、とその後肝に銘じながら練習せざるを得なくなった。

最後の難関、近畿インターハイは雨だった。
王子陸上競技場は使い慣れた競技場で自分達の庭のようなもの。
去年の夏には、見るからに強そうに見えた大阪・浪商のリレメンが、コールの時間に少し遅れ、神港学園の田川先生にこっぴどく毒づかれてビビッているのを笑えるほど心に余裕は出てきていた。でも、福島での全国にいける確率など、ほとんど出たとこ勝負のような状態だった。
自分の五種競技と4継とマイル。それに2年谷川の100、200で臨んだ近畿。
土のトラックは表面に5cmも水が溜まり、女子400の決勝はオープンスタートだった。

「一瞬の風になれ」に心動かされて、30年前のことを思い出そうとしても、4継が決勝で何番だったのか正確に思い出すことができない。多分5位だったんじゃなかったかな、という程度で、とにかく夢だった福島インターハイに出ることができた。
2年の夏、紀三井寺で走ったオーダーは、2年の関谷を一走、二走斎藤、三走滝本、アンカー2年の谷川と変化した。

春野台高校陸上競技部リレーチーム。実にいいチームだ。
by saitoru1960 | 2007-02-24 13:24 | 物語

一瞬の風になれ

友人に、いいですよ、きっと気に入るはずですよ、といわれ購入した「一瞬の風になれ」は、昔の自分を思い出しながらも現役の高校生アスリートに薦めたい一冊になった。
中学校から陸上競技をやり始め、走高跳、110mハードル、五種競技、十種競技と自分の種目を変化させながら、今はロードレースなどを走り、なんだかんだで、もう30年も陸上競技とつきあっていることになる。
でも、陸上競技という題材で小説を書いたとしても、陸上競技をやった事のある人には理解できても、それ以外の人にはなかなか理解できないのではないか、というのが頭の中にあった。

「なに考えて走ってるん?、走って面白いの?」という質問は、中学・高校と陸上競技部に所属している者なら一度はクラスの友達などに質問される。
なんでかな、と思いながらも理由はない。ただ好きだから、なんだと思う。
たった0.1秒、たった1cmの自己記録更新で、それまでのつらく、長い準備時間を価値のあるものに昇華できる心。

肌で理解しづらいだろうと思っていた陸上競技者のスピリットを、佐藤多佳子はさらりとした文体で、きちんと正しく書き綴ってくれている。
そう、そう、こんな感じ、自分が高校の時やってたことってこんな感じ、と思うことができ、ズンズン読み進んでいっている。
検索してみると、「この本を読んだ高校生アスリートは、練習でもう妥協することはできなくなるだろう」と書いている人がいた。
でも、物語のど真ん中にいる本当の高校生アスリートがこの本を読んでどう感じるだろう。
自分がもし高校生の時、この本を読んでいたらどう感じるだろう。

高校2年の月刊陸上競技9月号が布団の枕元にあり、寝る前の数分間それを眺めて次の全国を夢をみながら知らぬ間に眠りにつく、そんな風にしか本を読むことのなかった高校時代に、自分はどんな風にしてこの本を読んだだろう、と想像してしまう。
自分では精一杯やったつもりでも、まだできることがあるはず、と新二に対抗しようと心動かされていたかもしれない。

今読んでいるのはちょうど高校3年生のシーズンインの頃。
学年末考査をむかえる陸上部員たちと姿を重ねてしまい、ミーティングの時にも新二や連が目の前にいるようにも思えてしまう。
by saitoru1960 | 2007-02-22 05:14 | 物語

中国・エイズ村

ジュンク堂で見つけた「丁庄の夢」という本は、ルワンダの悲劇を知らなかった時と同じように、知らずにいたことの怖さを感じさせられた一冊になった。
日本の戦後1960年代に行われていた「売血」は、歴史上の過去の出来事という範疇だったが、1990年代といえばもう「今」の出来事。
エイズ教育もしていたし、薬害エイズ事件も大きく問題になっていた。
そんな時代に中国の貧しい内陸の村で行われた「売血」は、経済発展真っ只中にいるような現代中国の裏側を見せつけられた様な気がしている。

以下、東京新聞からの転載
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<売血政策の中国『エイズ村』ルポ>
 家族との死別、貧困、発病の恐怖-。行政が進めた売血政策によってエイズ患者が激増した中国河南省の「エイズ村」で、報道統制によって長年固く閉ざされてきた“悲劇”が、現地取材によって浮かび上がった。責任を逃れようと取材を妨害する役人たちの陰で、農民らは記者に感染の悲しみと怒りを切々と訴えた。(中国河南省双廟村で、平岩勇司)

■『息子の血で家建った』

 「この家は息子の血で建てたんだ。死んじまった息子の…」

 人民服姿の男性(60)が真新しい自宅を指さし、涙ぐんでつぶやいた。

 れんが造りの粗末な家が多い集落で、時折、二階建ての白壁の家を見かける。それらは例外なく、売血で得た金で建てられた。豪華な家の中で家族の誰かがエイズウイルス(HIV)に感染するか、死に至っている。

 村を歩くと、どの田畑にも高さ一メートルほどの土盛りがある。農作業の一部かと思ったが、村の長老の一人、張淵海さん(72)は「全部、墓だよ」と教えてくれた。張さんもこの三年間で三人の息子をエイズで失った。「金が無いから遺体は田畑に埋めるだけ。墓標も建てられない」

■差別逃れ改名、発病に不安

 一九九〇年代半ば、河南省の農村に有償献血(売血)センターが次々と現れた。当時の中国は輸血用血液が不足しており「血液がビジネスになる」と考えた地方当局や腐敗幹部らが製薬会社と結託。貧しい農民に売血を奨励した。採血に使う機器は殺菌されず、注射針も使い回された。

 「一回四百ccの売血を、多い時は週五回やったよ。他に金を稼ぐ方法はなかったから」

 暖房のない自宅で作業用コートを着込んだ女性(43)が振り返る。「警察に見つかりたくない」という本人の希望で、深夜に話を聞いた。当時の年収はたった五百元(約七千五百円)。「売血すれば一度に五十元も手に入った。村のみんなが殺到した」

 九九年に夫がエイズで死亡した時、初めてエイズの存在を知った。同時に自分の感染も。「ショックで立つことができず、一日中泣いた」。発熱や嘔吐(おうと)を繰り返し、死を覚悟した。

 現在は政府などから支給される月八十元(約千二百円)が生活の支え。薬は無料だが副作用がつらい。多額の借金をして大学に通わせる娘は、差別を恐れて名前を変えさせた。

 「微熱が続くたびに発病したか不安になる。『お前はいつ死ぬか分からない』と、もう誰も金を貸してくれない。私をこんなに苦しめる役人や企業の連中を許せない」

■追及恐れる地方、取材妨害

 村で取材していた時、砂ぼこりをあげて車が走ってきた。郷長(村長)が警察官を連れて現れ、「取材の許可を得ているのか? 車に乗れ」と要求した。「ことしから許可なしでも取材できるはずだ」。記者は中国政府が配布した取材規定書を見せた。郷長は「それは北京五輪の取材に限った話だ」と言い張る。

 押し問答は一時間続いた。いつの間にか数人の男に取り囲まれた。郷長は携帯電話で上層部の指示を仰ぎ、「事務所に来てくれ。書類を申請すれば取材を認める。だが私たちも同行する」。物腰は柔らかいが、譲る気配は全くない。結局、その場は取材を切り上げざるを得なくなった。

 村当局はその後、取材に応じた村民を取り調べ、二度と応じないよう警告した。「逮捕されるかもしれない」と記者に助けを求める人もいた。

 中国外務省の担当者はこの件について「新しい取材規定が地方に浸透するには時間がかかる」と釈明する。中央政府が情報公開や改善を進めても、責任追及を恐れる地方がそれを妨げる。中国が抱える構造的問題がここでも浮かび上がった。
by saitoru1960 | 2007-02-18 13:15 | ドキリとしたこと

④ガルディアの夜ー5日間の帰郷ー

3、4日目は当初からリゾート島ワアドゥーに行く計画をたてていた。モルディブ人の住んでいる島の数は約200。他に90ほどの島が1島1ホテルのリゾート島として営業し、ヨーロッパやアジアの観光客を誘致している。

ダイビングフリークにはあこがれの海の1つになっているほど海の魚影は濃く、サンゴの白砂でできた浜辺は、時として紺碧の空と見事なコントラストを作り上げる。ただし、リゾート島はあくまでも観光客用の夢の島で、モルディブ人が普通に生活することは決してなく、住み分けははっきりしている。

4日目の午後、ワアドゥーからドーニと呼ばれる船に乗り、うるさいエンジン音が響く中、遠く水平線に浮かぶ小さな島々を何を考えることもなく眺めながら、わたしたちはマーレに帰ってきた。最後の夜はアハメドの家でガルディアというモルディブの伝統料理・かつお汁のぶっかけめしをご馳走になることになっていた。

約束の時間にはまだ余裕があったので、もしコーチをしている旧知の選手に会えたときのお土産にと持ってきていたトレーニング用のラダーを手にして、わたしは、2日前誰にも会えずがっかりさせられた陸上競技場へと再び走った。

アハメドの奥さんが作ってくれたガルディアは、16年前協力隊員としてマーレに到着した夜初めて口にした時と同じように、日本人にはどこか懐かしさと安心感のある味だった。子供たちは、アハメドの子供のために持ってきたポケモンのジグソーパズルで、言葉は通じなくとも一緒に仲良く遊び、モルディブで今大人気なんだ、と話す、日本でも以前子供たちの間で流行したベイブレードという組立式のコマ回しで日本対モルディブの勝負に興じていた。

アハメドの弟夫婦も一緒にガルディアを食べながら、昔のことや変わってしまったマーレのことなどを話している時だった。弟の携帯電話が鳴り、電話に出た弟はしゃべりながらわたしの顔をジロリと見つめ、わたしと視線が合うとやさしくあごをしゃくって何かの合図を私にくれた。そして次の瞬間、わたしに、「フセインからだ」と言って携帯電話を渡してくれたのだ。

「コーチ、フセインだ。どこで何してるんだ!」

少し怒ったような、それでいて笑っている顔が目に浮かぶ、かつての教え子フセインの叫び声が耳に飛び込んできた。嬉しいとき、心動かされたとき、反射的に体の底から湧き上がってくる不思議な分泌物が体全体に瞬間的に広がり、毛穴が立っているのが自分でもわかった。

夕方の競技場で、わたしは偶然見知らぬ陸上コーチに出会うことができていた。話すと、今開催中の南アジア大会にコーチをしているアーミルほか陸上競技協会の人たちがほとんど出かけているということだった。それならと、「帰ってきたら、昔いたサイトーからのプレゼントだと伝えておいて下さい」と、わたしはそのコーチにラダーと伝言を託していたのだ。

わたしが競技場を離れた後、競技場にジョギングに来た別の教え子がそのコーチに出会う。サイトーという日本人がさっきやってきて、急ぐように帰っていった、ということだけを知り、そこから教え子たちの携帯電話を駆使しての大捜査作戦が始まったようだ。

ワアドゥーからマーレへのドーニに乗っていたこと、空港で働く友人に今夜出発する飛行機の搭乗者名簿の調査を依頼し、名前がないことなどがはっきりしたあとで、マーレで行くとしたら考えられる協力隊事務所などにも連絡をつけたが見つからず、ひょっとしたらアハメドには連絡を取っているかもしれないと、弟のところに電話をかけたら、「ビンゴ!」となったんだ、とフセインは英語とモルディブ語を混ぜ込み一気にまくし立てた。わたしは何でこうなったのか、できるだけわかりやすく説明し、ゴメン、ゴメンと笑いながら謝った。笑いながら目には自然に涙がにじんできていた。

アハメドの家からセントラルホテルに急いで帰ると、暗闇の中にフセイン、リバリン、リヤーズ、アムジェッドの4人が待っていた。わたしは16年分の気持ちをこめて一人ずつ強く手を握り締めた。

「キヒネ?(元気か?)」、「ランガル!(元気だ!)、バラーバル!(最高だ!)」

長くて短い最後の1日がそこから始まった。
by saitoru1960 | 2007-02-14 08:43 | モルディブ

北海道のお土産

祖母と一緒に行った旭山動物園と雪祭りの北海道。子供たちが買って来てくれたお土産は、チョコレートととど肉の缶詰。
f0013998_20572129.jpg
f0013998_20573541.jpg

by saitoru1960 | 2007-02-12 21:01 |

心動かされたことを忘れぬように


by saitoru1960
プロフィールを見る