<   2008年 05月 ( 6 )   > この月の画像一覧

Sへの手紙

「S」へ

ワープロの文字だけど、許してください。
どうしても早く手紙を書こうと思うと、今はこっちの方が早いのです。

Sから届いた手紙を読んで、学校においてある記録集を開きました。
「神」高校時代の記録集は1冊のバインダーにすべて閉じてあるので、ひも解くのは簡単でした。
記録集に文章はないけれど、名前と記録の数字を眺めていると様々なことを思い出します。
数字を見ながら、今一度パソコンでまとめる作業をすると、頭の深いところに眠っていたことも改めて思い出してくるのでした。

1984年。2年生のSは市大会で2区を走っています。
でも、県大会では代わりに「小」が走っています。
「小」です。
わたしが、「神」高校に赴任した頃、「小」と「澤」は常に故障をして、補強をしていました。それこそ、腹筋をしすぎてお尻の皮がむけるからと、専用の尻当てを持っているほどでした。
「小」が真剣なまなざしで走っている姿はあまり思い浮かびません。わたしの心の中でのあいつは、ずっと補強をしています。
最初で最後の駅伝。市の駅伝が近づいてきた頃の、県大会には間に合わせます、という「小」の言葉を不意に思い出しました。

このときの駅伝キャプテンは「喜」です。覚えていますか。
「喜」は3年生で一度も駅伝を走れませんでした。
当時、ロングの練習が先に終わると、短距離の練習が終わるのを幅のピットでウダウダ待っていることがよくありました。
「「喜」、待っとう間に流しでもなんでもしてみたらどうや? それ見て真似するやつがでたら、それだけでもやる甲斐あるやろ」
と、あいつと二人で話をしました。
あいつは1人で走り始めました。しばらくすると「英」が、「俺も走ろかな」、と別に走り始めました。
まったくスピードの上がってこない「喜」は、選ばれることはない、と覚悟はしていたけれど、メンバー発表の日、やはり名前は呼ばれませんでした。
発表のあと、みんなの前で「喜」は、キャプテンとしての話を一生懸命していました。これしか俺にはできない、とでも示すように。
サブから家までの帰り道、目に涙を浮かべていました。

「澤」は幸せだったと思います。最後に間に合って、やり残したことはない、と思っているはずです。「道」といい、思いっきり遊べて思い残すことはないはずです。
Sはこの頃何を思っていたのでしょう。

1985年。思い出すのは「溝」の言葉です。
あの、と代名詞がつくほど入学当時走るのが遅かった「溝」です。
その「溝」が駅伝に初めて出たのが3年の市の駅伝です。
10’31かかって区間9位。同じ3kmを走った1年の「濱」より1分も遅いタイムです。
県大会は1年の「梢」が3kmにエントリーされました。
「濱」が9’22、「梢」9’28。コースを考えても遜色のないタイム差です。
そして、近畿大会への切符を手にしました。

県で走ることのできなかった「溝」は、閉会式の後、篠山鳳鳴高校のグラウンドから正門に向かう道の途中で、
「溝」よかったな、近畿やで、というわたしにこういったのです。
「ほんとによかったです。これでもう一回、僕は走るチャンスを得られたんだから」
近畿大会に初めて出ることができたことだけで喜んでいるのではなく、自分にチャレンジする機会をもう一度与えられた、得ることができたことの喜びのほうがあいつには強かったのでしょう。
そして再び、「溝」は淡路島で3kmを走ることになるのです。

「浦」もいろいろ紆余曲折はあったけれど、「澤」よりはやり残したことはないでしょう。
Sは最後の駅伝を一度も走ることなく終わります。

1986年。Sはもうサブにはいません。
でも、同じようなことは続きます。
「添」は驚いたことに、記録集をめくってみても5kmの記録が残っていません。今日改めて驚きました。
「添」には1年生の冬に一度、「辞めるか」と私から印篭を渡しました。
その後、家からリュックを背負って走って登校し続けたことはSも知っていることだと思います。

自分のために走り始めた「添」は順調に記録を伸ばしました。でも、神様は試練を与えてくれるのです。一度急激に伸びたあと、上昇カーブは鈍化してきます。
最後の駅伝も市ではうまく行ったけれど、県では33位とつぼります。
最後の最後、近畿ではアンカーにしました。花の1区が「原」なら、しめくくりには「添」が最もふさわしいだろうと、キャプテンの「塚」もそれに対して文句はないだろうと思いました。
ゴールテープを切る「添」はすがすがしかったことでしょう。

「吹」。よく足の裏に水ぶくれを作っては絆創膏を張っていました。
最後の学年、あいつは県大会の3kmを一回走っただけです。
「原」、「塚」、「添」と比べてみても、あいつの3年間は日の目を見たとは到底いえないと思います。高校2年では市、県、と6区を2回走っても100%満足のいく結果は残せず、挙句の果て、近畿では17分もかかって終わるのです。
翌年にかける「吹」の1年間を想像することはSも簡単だと思います。
でも、翌年「吹」が走れたのは県の3km、たった1回だけなのです。
「吹」の1年かけて蓄積されたエネルギーは昇華したのでしょうか。
わたしの記憶では、3年として最後のインターハイに5000mで出た「吹」は、同級生の「原」に一周抜かれ3000mほどを走って終わったはずです。
「吹」は、人は人、自分はじぶん、と決して才能を比較して嘆くことなく、自分の能力を磨き続けていました。
だからこそ、走った県大会と走れなかった最後の近畿大会と、「吹」はどっちをよく覚えているのか尋ねてみたい気がします。

そしてこの頃、「濱」は貧血との戦いが続いていました。

一気に書いてみても、ここまで思い出してきます。
もう一年伸ばすと、「濱」のこと、「廣」のこと、「森」のこと、「奥」のことそれぞれの駅伝のことを思い出しそうです。
そして、そんな部員をほってまでモルディブにいこうと決心した自分のことまで。

モルディブから帰ってきて、自分の中で大きく変化したことの一つに、日本以外でも生きていける場所ができたということがあります。これは、かなり大きいです。
もし、自分の周りに自分を理解してくれる人がいなくなったら、モルディブに行って生活したらええ、とまでも考えられるほど、今の場所しか自分でいられない、という気持ちはありません。でも、行ってなかったら、そんなことは絶対感じ得なかったと思います。

そんな遊びのような部分が心の中にできてしまうと人間強くなれるもので、創造的なもの、前進的な行動に対して、一人で進んでいくことに躊躇がなくなってきます。そして、他の人の役に立つことを代償を求めることなく実践することにも抵抗感が薄れていくのです。
モルディブで2年間生活したからこそ、心の中にもてるようになった自分の柱。
行って、2年間生活したからこそ、自分の中にできた自信みたいなものなのかもしれない。
人からどう思われようと、毅然と、しかも自立していられる自分自身の柱。
そんなものも含めて、Sの知っているわたしと今のわたしはちょっと違うかもしれません。

S、ありがとう。いろいろ思い出させてもらいました。
Sからの手紙がなければ、こんなことを思い出すこともなかったかと思います。

わたしの中のSは、この前会った時と同じまなざしで、前を向きハアハアしながらサブを走っている姿です。

前を向いて、そして何かに向って。
by saitoru1960 | 2008-05-21 16:36 | 陸上競技

神戸まつり

子供たちの休みと自分の休みが久しぶりにあったので、3人で元町に出た。
小磯良平と東山魁夷の絵画展をみて、神戸まつりの屋台を求めた。
南京街に行くと、四川大地震のカンパをしていたので、一人100円ずつ募金をした。
絵画展は、二人並べるのが惜しいくらいで、年を近くして、同じ高校にこのような画家がいたというのが、偶然とはいえ驚くばかりである。
f0013998_1743560.jpg
f0013998_1744642.jpg
f0013998_175185.jpg
屋台では、「あげもち」というのを発見。あまり見たことのないものだったが、名前のとおり小さい餅を油で揚げたもの。わかばはきなこで食べた。
公園に出ていたフリマで遊戯王カードを発見。光は珍しく1枚だけ10円で購入した。100円を手渡したときは、またとりあえずの10枚を選ぶのか、と思っていたので、これにはびっくり。
小学校5年生になったということかもしれない。
その後、挑戦したのは「スーパーボールすくい」。
これまた、今まですぐに破れておしまい、というパターンだったのに、予想を覆して、40個以上すくいまくり、大きいスーパーボールをゲット。
大喜びだった。
f0013998_17132922.jpg
f0013998_17134180.jpg
f0013998_17135135.jpg

その後、ジュンク堂で本を探し、伊坂幸太郎2冊、下川祐治1冊、そして岩波新書1冊をゲット。
天気も清々しく、いい休日の午後であった。
by saitoru1960 | 2008-05-17 17:24 | 休日

仲間の死

家族を置き、一人で南アルプスへ山スキーをしに遊びに行った上木さんが死んだ。
滑落事故。全身打撲で50歳の体はあっけなく亡骸となってしまう。
残されたのは奥さんと子供3人。
高校2年生の娘、中学2年生、そして小学4年生の息子。
f0013998_18401567.jpg
お通夜には子供たちの同級生もたくさん参列にきていて、それだけで上木さんの罪は深いものなのだと考えていた。
わかばや光の同級生に父親が死んだからと、お通夜や葬儀に参列させてなるものか、と改めて決心してしまうくらい。
大きくなってからの「死」は仕方ない。
でも、子供たちの同級生が制服で参列する季節は、まだまだ父親としての仕事はたくさん残っている。生きているだけでも、その仕事の中心部分にはなるとも思う。
f0013998_1844672.jpg
お通夜に東京から山下さんがやってきた。
お通夜のあと、三宮で拓の店に行った。
8月に計画している同期会にはぜひともたくさんの人に来てもらわなくては、と上木さんのことを話しながらひらあじなどを食べた。四万十川の栗焼酎「ダバダ火振り」もしみじみうまかった。
f0013998_1852313.jpg

by saitoru1960 | 2008-05-11 18:54 | 協力隊

初夏の山歩き

GWの最終日。朝から清々しい陽気になり、午後から3人で須磨アルプスへむかった。
左のアキレス腱が今朝も痛み長く歩けるか少し心配していたけれど、それもかまわないほどの季節に、気分は上々だった。
f0013998_1783411.jpg
糸トンボや芋虫など生き物もきちんと春の動きをしていた。
f0013998_1735066.jpg
木漏れびにも初夏を感じる。
f0013998_1784537.jpg
山の上からの景色もきらめいていて、冬の色より海が白っぽく写真には写っている。遠くに見える明石海峡大橋。
f0013998_1785821.jpg

by saitoru1960 | 2008-05-06 17:28 | 休日

中学時代の仲間

学生時代、クラスでの想い出にはいろいろあっても、中学校2年生のときのクラスが一番印象に残っている。
男子も女子も仲がよくて、思春期前半の多感な時代をすごす中、思い出深いことは山ほどあるクラスだった。
男2人、女4人が久しぶりに集まった。
自分では忘れていることがたくさんあった。
小林には中学校を卒業してから会っていないと思っていたのに、最初に結婚し、結婚式にみんなと一緒に参列していたり、大学卒業後、引っ越して近くに住んでいた岡は、通勤途中に拾って行くこともあった、ということも、思い出話をしだしたら出てきた。
中学校時代のこと、小学校時代のこと、6人で話すと忘れ去っていたことが次々に思い出され、人間の記憶はすごいものだと感じてしまう。
溝内にも長田の同窓会で会っていたけれどまともにしゃべっていないので、十何年ぶり、たこにいたっては、福知山マラソンですれ違っただけで、中学卒業後99%会っていない。
かのにはまだ数回会ってたかな、というだけでそれでも最後に会ったのはもう十年は前になる。
そんなメンバーでも会って話すと、昔のようにたこはたこになり、溝内は女子のキャプテンになり、小林はみんなからかまわれる存在になる。
思い出話は次々に話題が飛びまくり、覚えのある名前が出てくる。
もっと、あれからの話題が出てくるかと思っていたけれど、あの頃の話が尽きなかった。
半分幼馴染に近い仲間。
カンペーやあごもいたらまた出てくる話はかわってくるはず。
「わたし、あんまりかんぺーと話した記憶がないねん」と女子は話していた。
でも、かのが持ってきた「班ノート」にはそれぞれの想い出がそれぞれの手でつづられていて、話していなくても、文字を読んでコミュニケーションはとっていた。
自分にとって大切なものというのは気づかずすごしていることもやはり多い。
by saitoru1960 | 2008-05-06 06:12 | 仲間

アキレス腱

去年の末に右の足首を激しく捻挫してから、正座することもできないほど機能不全になっていて、半年近く経つのになかなか元に戻ってこない。
そこのところに、短い距離をなんとか速く走れないかと走っていたところ、左のアキレス腱に痛みが出てきて、追い討ちをかけてくる。
バウンディングもジャンプドリルもまともにできない。
なんとも、歯がゆい自分の体に、48歳というのが出ているのかとも思う。
元に戻ることはできなくても、フットワークの軽い体でありたいと思し、そう思いながら体を動かすことは気持ちがいい。
爽やかで気持ちのいい季節、なんとか痛みがましになってほしい。
f0013998_5403845.jpg

by saitoru1960 | 2008-05-02 05:33 | ひとりごと

心動かされたことを忘れぬように


by saitoru1960