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花神(中)より

f0013998_22315065.jpg元来、人間の行為や行動に、どれほどの意味や内容、あるいは理屈が求められるであろう。
なぜ親に孝であり、なぜ君に忠であるのか、と問われたところで、事々しい内容などはない。
うつくしい丹塗りの椀の中に、水を満たそうと飯を盛ろうと、また空でそこに置こうと、丹塗りの椀の美しさにはかわりがないのである。
孝や忠は丹塗りの椀であり、内容ではない。
蔵六は堪えしのぶことによって、自分のなかに丹塗りの椀を作りあげている。
丹塗りの椀の意味などは考えておらず、ただ自分は丹塗りの椀でありたいとおもっているだけである。
by saitoru1960 | 2010-06-29 22:24 | 物語

15年目の椅子

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ついに光のお尻が入らなくなった。
わかばが1歳の頃から使い始め、いつの頃からか、おかあさんに散髪をしてもらうときだけ登場する幼児用のこの椅子も、役目を終えようとしている。
わかばは美容院に行きはじめ、もう座ることもないだろう。
光がいつまでおかあさんに髪を切ってもらうのかわからないけれど、この椅子が役目を終えようとしていることに、時の移ろいを感じてしまう。
15年。
おかあさんの散髪はいよいよ終わるのかな。
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by saitoru1960 | 2010-06-26 12:28 | 家族
いつの頃からか、賞状の表面を見えるようにおなかあたりに保持し、誇らしげに表彰台の上に立っている選手の姿を見るようになった。

何位であったとしても、自分が賞状を受け取ると、そこからは自分の世界に入り込み、誇らしげに前に賞状を見せ、台の上で観客席に向かってピースサインなどを出しながら身体で喜びを表している。自分より上位の選手に拍手をおくることはあっても、表彰するお偉いさんが粛々と賞状を手渡していく間、自分のあとに続く選手に拍手をおくることはない。

これも時代なのかと思いながらも、他者に対する思いやり、儀式と捉えた場合のその場での個としてのありかた、などを総合的に自分の中で判断すると、これでいいのか、と疑問符がついてくる。

近畿インターハイ。
やはり、表彰台の上では全国大会出場を決めた能天気にも映る選手達が、興奮隠しきれずにはしゃぐ姿が多く見られた。それはもう、これでいいのか、と苦言を呈したくなる光景でもないほど見慣れてしまったもので、表彰台の上と友人達のいる観客席との間で、喜びの時間を共有していた。

5000mの表彰式が行われた。
1位の選手が賞状を受け取る。
受け取った後、その選手は左手で賞状を小脇に抱えた。思わず次の動作が気になった。
2位の選手が表彰状を受け取ると1位のその選手は賞状をもつ左手と右手をあわせ、小さく拍手をおくった。懐かしささえ感じる光景に2位選手の動きを見ていると、なんと同じことが繰り返された。3位、4位と同じように続き、最後の6位の選手には前5人分の小さな拍手があわせておくられたのだった。
表彰台と友人達のいる観客席との間でのやりとりも拍手だけ。
本人は静かに台の上で立っているだけだった。

「時代」というだけでは説明できない何かがある。

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110H決勝。3位と4位の腰の位置はほぼ同じなのだが。
by saitoru1960 | 2010-06-22 22:03 | いろいろ

花神(上)より

p204
 日本人が、あたらしい文明の型をみたときにうける衝撃の大きさとふかさは、とうてい他民族には理解できないであろう。
 日本人を駆り立てて維新を成立せしめたのは、江戸湾頭でペリーの蒸気軍艦を見たときの衝撃であるということは、すでに触れた。
 衝撃の内容は、滅亡への不安と恐怖と、その裏うちとしてのあたらしい文明の型への憧憬というべきもので、これがすべての日本人に同じ反応をおこし、エネルギーになり、ついには封建という秩序の牢獄を打ち破って革命をすらおこしてしまった。この時期前後に蒸気軍艦を目撃した民族はいくらでも存在したはずだが、どの民族も日本人のようには反応しなかった。

p389
 といいながら、つくづくこの蔵六という人物は情のわからない人物だとおもった。
 が、蔵六は、イネの気持ちがややわかっている。が、それをわかってしまうことは、一個の男子として恥ずべきことだという、この時代の男の倫理が、彼の脇腹に刃物を突きつけているようであった。自分は惚れられているという、このいい気なうぬぼれほど男子にとって恥ずべきことはないという、のちの時代の倫理からいえば奇妙すぎる痩我慢のような、あるいは羞恥心の変形のようなものが、蔵六の心に足カセをはかせている。

p401
 そういう想像力の作業は、この地球上のいかなる民族よりも、日本人は古い鍛錬の伝統をもっていた。千数百年のあいだ、日本人は漢文という中国の古典語をまなび、それによって、その肉眼で見たこともない中国文明の世界を知ろうとした。知ろうとすることは、日本人にとって想像力を働かせることであった。
 この国は、まわりを海にかこまれている。浜辺に立って沖をのぞむとき、いかにつまさきを立てて伸びあがろうとも、沖は水平線でしかなく、中国大陸も見えねば、ましてヨーロッパは見えない。結局は空想したり想像したりする以外になく、その空想や想像を刺激して像を結ぶにはその文明世界の文字を学んで読む以外にない。そういう精神作業を、気の遠くなるほどの長い期間、日本人は漢文によって自己訓練をした。

p403
 たとえばアラブ圏やインドのひとびとを例にひきたい。かれらがあたらしい技術文明に参加するには国家や社会あるいはその固有の文明の体質まで変えてしまわねばならないが、そのためにはたとえば回教なりヒンズー教をなりを捨て、聖典を焼き、宗教習慣や儀礼をやめ、僧侶まで追放するいきおいでかからねばならない。そう仮定する。いや、仮定するというよりそうしなければとうてい新文明に参加できにくいであろう。が、かれらはそういう伝統の思想や習慣を決してすてないであろうことは、現在その地域のひとびとを見れば自明である。
 ところが、日本人は明治維新で儒教をすてた。一時は廃仏き釈で仏教まで捨てた。洋学に大転換した。これを文化大革命であるとすれば、毛沢東中国がやった文化大革命などよりも底の底からひっくりかえしたという点でははるかに大がかりで徹底している。しかもそれはきわめて気軽にごく自然に行われたという点、これを回教やヒンズー教の国々のひとびとがみれば、
ー日本人というのは自分たちとおなじ人間であるか。
 ということに驚嘆というより無気味がるにちがいない。思想でもって骨のずいまでつくりあげている民族からみれば、日本人とは人間以外のなにかべつな存在であるとせおもうかもしれない。
by saitoru1960 | 2010-06-21 05:49 | 物語

プリンセスソースの味

f0013998_2222283.jpg先日、おかあさんが買ってきたプリンセスソースの「どろから」。
阪神春日野道駅近くの店で購入してきたものだけれど、今夜、家に帰ると、「カレーに入れたら味が変わるよ」とわかばとおかあさんは絶賛していた。
辛いのが苦手な光までも、スプーンで味見をしていて、最初なんともないけど、すぐにもわっと辛さが広がるで、と話してくれた。
最初にスプーンでなめると、光のいうとおり、すぐにおいしい辛さが口の中に広がった。
なんともコクというか、深みというか、ただ辛いというひとことではすまされない味。
すぐさま、これをカレーにかけたら、と期待してしまうほどで、かけて一口食べたら、なんとも別のカレーになってしまった。
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王子公園の高架下を西に100mほど行ったところにある小さな店でおじいさんと息子が二人で作っているという一品。
あまり人に教えたくないなと思うほど、あまり経験したことのない、でもなんだかアジアの料理を思い出させる貴重な味だ。
by saitoru1960 | 2010-06-10 22:10 | いろいろ
志士は溝壑(こうがく)にあるをわすれず、勇士はその首をうしなうをわすれず(孟子)

ひとたび志を持てば、その末路は溝壑(クリーク)に捨てられた死骸である。しかるがゆえに志士たる者は平素自分の運命の最後を忘れない。
勇士たるものもそうである。
勇気というものは人間の尋常な姿ではないために勇をふるうときはかならず、相手方から強烈な反作用がおこり、それがために首をはねられてしまう。その最期をつねに想定して覚悟しない者は勇士ではないという意味である。

かなり昔に龍馬の言葉として記憶していたものが、以前「世に棲む日日」を読んだときのものだったということだったということに気付かされた。

「勇気というものは人間の尋常な姿ではない」→「相手からの強烈な反作用がおこる」→「首がはねられる」という公式。
武士道の本質がこの辺りにあるとすると、到底今の世の中では成り立たない公式。
「死」と隣り合わせの「勇」。あまりにも重過ぎる「勇」になる。
by saitoru1960 | 2010-06-10 05:45 | 物語

告白

家から三宮まで約10、5kmを走る。
三宮高架下のチケットショップで前売り券を購入し、シネリーブルへ。
昨日ロードショーが始まった、去年のマイベスト本の映画「告白」を観に行ってきた。
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なんだかうまい具合に忘れている部分があり、最後のところも、「そーいえば、そうだった」というタイミングで思い出し、新鮮に見ることができた。
松たかこ、木村佳乃、ともに好演で、「Mother」の継美ちゃんも一味違った演技をしていた。
我が子をあんな子供たちに殺された母は、復讐を決意してもおかしくはない。
でも、そうならないのが現実なんだろう。
でも、自分の子供が、と一生懸命想像力を巡らせても、現実に起こらなければ自分がどうなるかはわからない。
by saitoru1960 | 2010-06-09 05:54 | 映画

心動かされたことを忘れぬように


by saitoru1960