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流れた時間

終戦記念日の夜、倉本聰脚本の、「歸國(きこく)」を見ていた。
敗戦から65回目の終戦の日。南海にいまだ沈んでいる英霊たちが軍用列車に乗り、終電車の立ち去った真夜中の東京駅プラットホームに降り立つ。
今までずっと夢見てきた自分が訪れたかった場所へ、始発電車が動き出すまでのつかの間の時間おとずれる許可が出る。
ずっと夢見ていた自分の故郷日本。
変わり果ててしまった日本は英霊たちに何を感じさせるのかというテーマの中物語は進み、あるシーンでラジオから樋口了一の「手紙」が流れてきた。
壮年のディスクジョッキーは、認知症にかかってしまった86歳の元軍人の妻から、「せめて終戦の日ぐらいは、戦争の話を繰り返しても許してやっていいのではないか」と届いた手紙に、「そうですよね・・」とひとり呟いた。

年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解して欲しい
私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても
あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい
あなたと話をする時 同じ話を何度も何度も繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい
あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本の暖かな結末は
いつも同じでも 私の心を平和にしてくれた
悲しい事ではないんだ 消え去っていくように見える 私の心へと
励ましのまなざしを向けて欲しい

紅白歌合戦だったかなにかの音楽番組だったかで、一度ドキリとさせられ、そのままほったらかしにしておいた自分を嘆くように、すぐさまネットで検索し歌と歌詞を探り当てた。
翌日、iPodに入れた「手紙」を、終わりまでいっては曲の先頭に戻すことを4、5回繰り返しながら学校まで走った。
いつもならその日の練習内容を考えながら走ることができるのに何も考えることができす、ただ歌詞を頭の中で反芻しながら、頭に浮かんでくるいろんな映像に心を奪われているような感覚だった。

夢野で高志さんに会った時、「おまえはまじめやからなあ」といわれた。
夢野はどうやと聞かれ、まだスタンスを探っている感じです、と答えたときだった。

高志さんから去年、谷川先生のことを聞いた時、やはり会いに行くにはタイミングが必要だな、というハードルを感じていた。
でも、「おまえはまじめやからなあ」ということばが、iPodから流れる「手紙」を聴きながら浮かんでくる映像にかぶさり、「そうや、行きたかったらいったらええんや」、と決心がついたのだった。
あれこれ考えすぎて会えなかったらどうなる。
何のため、誰のために、会うことに対して理由が必要となるのか。
自身でもわからないものを足かせとし、動かなかった自分に決別するように、23日、夕方の起きているだろう時間帯に姫路に電話をかけた。
とおるです、おお、どないしたん、木曜日か金曜日に遊びに行ってもいいですか、うん、ええで、いつ死ぬか分からへんから木曜日にしよか、午前中じゃないと体がしんどくなるから、10時半から12時くらいでな。
あっけなく、十数年ぶりに会えることが決まった。
ほんとうにあっけなく。

月見山駅周辺は震災後再開発にかかり太い幹線が南側にできた。
その幹線によって町は分断される形になり、駅から南へ伸びる昔ながらの狭い路地も、100mほど行くと新しく太い道に遮られてしまう。
姫路から月見山に出てくることもないだろうからと、思い出の品をもとめ、その狭い路地に今も残るコーヒー店でブレンドコーヒーを、果物屋でぶどうを買った。
昔、正月になるとこの路地を通って谷川先生の家に行き新年会をしていた。
最後に新年会をしたのはもう28年も前のことかもしれない。
大学4年の時、みんながワイワイ騒いでいる部屋の隣で、合田が箱根の10区を必死に走っている姿にがんばれの声をかけながら、ひとりテレビを見ていた記憶がある。
伊藤さんもいたかもしれない。そんなことも思い出しながら路地を歩き、谷川先生の今の姿を想像していた。

JR姫路駅中央改札口を出たところが待ち合わせ場所だった。
山陽のほうが安いし早いからということで、JRで約束したけれど山陽に乗った。
高校時代3年間乗り続けた山陽電鉄。
須磨、須磨浦公園。ここで降りると非日常の世界に入ることもできたんだな、と久しぶりに眺める車窓からの景色に、当時考えることもなかった理由を今だから簡単に理解することができた。
恵まれた、いい3年間だったんだと思う。

JRの改札前で谷川先生は自分を見つけると、胸の前で小さく手を振って合図をよこした。
小さくなったのかもしれないが、昔より度の強くなった眼鏡をかけている以外は想定内の、73歳という年相応の変わりようだったので、かなり安堵したのは事実だった。
おばあさんになりましたねえ、あんたも白髪が増えて、としゃべりながら、山陽百貨店のモロゾフの喫茶店に入った。

谷川先生がほとんどしゃべり、自分はうなずいたり少しことばを返したり、と昔のままだった。
今まで、なにを気にしてこんな時間をもてなかったのか。
もてなかったのではなく、もたなかったのではないか。
いろいろ思いながら、先生の話を聞いていた。

おかあさんの認知症が出始めた頃、姫路に行きたいというので引っ越したら、そんなことゆうてないのに、と言われたこと。
姫路に越したら震災が来たこと。
お母さんがテレビで震災の様子を見て「戦争や、戦争や」と言い続けたこと。
震災後にお母さんが月見山の家に行ったら周りが変わり果ててますます戦争を口にしたこと。

長田に来た1年目は体操部の顧問だったこと。
陸上部の第3顧問に名前はあったけど、体操部のことを見なあかんから、それを見た後でグラウンドに上がると、当時の部員が砂場で砂いじりをして遊んでいたこと。
2年目で伊藤さんや賢良さんたちが入ってきたこと。
2年目からは陸上部の顧問になったこと。
賢良さんが広島のインターハイを泊まりで見に行ったこと。
誰かに殴られたけど電柱にぶつかったっていったこと。
オートバイを買おうとしてお母さんから止めてくださいと相談を受け、買ったら試合にだせへん、といって止めたこと。
3年の4継で賢良さんがバトンを失敗してなかなかみんなのところへ帰ってこなかったこと。
大学の陸上部に入ったけど、部のムードが自分の思っていたのと違っていたのでやめようと相談してきたこと。
体育の世界で生きていこうとするなら陸上以外で何か誇れるものを持つように話したらスキーをがんばったこと。
賢良さんの話が多かったのは、谷川先生自身が長田でスタートした頃と、夢野で動き始めた自分自身のことが重なると話したからだったんだと思う。

夢野の子たちとやっていきながら、あんたの本当にやりたいことがどうしてもできないんだったら、長田に行ってやったらええ。
夢野で中途半端にいなければあかんのやったら、長田に行けるよう賢良さんに頼んでみたらええ。

サンドイッチをつまんだり、コーヒーを飲んだりしながら話を聞いていると、あっという間に12時半を回っていた。

こんな風に自分は陸上競技をやりたいんや、ということをはっきり子供たちに伝えて、真剣に打ち込ませる。
そんな壁にぶつかる時間を高校時代持っているかどうかはとても大切なことになる。

内田樹「下流志向」:師であることの条件より
・弟子として師に仕え、自分の能力を無限に超える存在とつながっているという感覚を持ったことがある。ある無限に続く長い流れの中の、自分は一つの環である。長い鎖の中のただ一つの環にすぎないのだけれど、自分がいなければ、その鎖は途切れてしまうという自覚と強烈な使命感を抱いたことがある。そういう感覚を持っていることが師の唯一の条件だ、と。
・長い鎖の中には大きな環もあるし、小さな環もある。二つ並んでいる環の後ろの方の環が大きいからといって、鎖そのものの連続性には少しも支障がない。でも、弟子が「私は師匠を超えた」と言って、この鎖から脱落して、一つの環であることを止めたら、そこで何かが終わってしまう。
・ある種の開放性と言ったらいいでしょうか。自分の中のどこかに外部へと続く「ドア」が開いている。年を取っていようが、体力が衰えようが、つねに自分とは違うもの、自分を超えるものに向けて開かれている。そうやって自分の中に滔々と流れこんでくるものを受け止めて、それを次の世代に流していく。そういう「パッサー」という仕事が自分の役割だということがわかっていることです。
・師弟関係で重要なのは、どれほどの技量があるとか、何を知っているとかいう数量的な問題ではないんです。師から伝統を継承し、自分の弟子にそれを伝承する。師の仕事というのは極論すると、それだけなんです。「先人から受け取って、後代に手渡す」だけで、誰でも師として機能し得る。

先生のためにと自らに足かせをはめ、動けなかった人達に、元気ではあるけれど73歳になってしまった谷川先生の今を知らせてあげなければと、電車の窓から流れていく風景を眺め考えていた。
by saitoru1960 | 2010-08-27 19:08 | ひとりごと

めずらしきもの

灘代表の「プリンセスソース」に対抗して大阪市東住吉区代表「ヘルメスソース」
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淡水軒の「食べるラー油」
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そして、アンナプルナから届いた「白なす」
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by saitoru1960 | 2010-08-19 18:19 | いろいろ

にがうり(ゴーヤ)の花

光が光合成の実験につかったゴーヤに花が咲いた。
でも、咲いた時すでに花の根元にゴーヤの実っぽいのができているというのが不思議。
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by saitoru1960 | 2010-08-19 18:14 | いろいろ
努力と報酬の間の相関を根拠にして行動すること、それ自体が武士道に反する。新渡戸稲造はそう考えていました。私はこのような発想そのものが日本文化のもっとも良質な原型であるという点において新渡戸に同意します。

努力とその報酬の間の相関を予見しないこと。努力を始める前に、その報酬についての一覧的開示を要求しないこと。こういう努力をしたら、その引き換えに、どういう「いいこと」があるのですかと訊ねないこと。これはこれまでの著書でも繰り返し申し上げてきたとおり「学び」の基本です。

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沓を落とすことによって黄石公は私に何を伝えようとしているのか。張良はこう問いを立てました。その瞬間に太公望の兵法極意は会得された。

瞬間的に会得できたということは、「兵法極意」とは修行をこつこつ重ねて習得する類の実体的な技術や知見ではないという事です。兵法奥義とは、「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」と師に向かって問うことそれ自体であった。論理的にはそうなります。

「兵法極意」とは学ぶ構えのことである。それが中世からさまざまの芸事の伝承において繰り返し選好されてきたこの逸話の教訓だと私は思います。「何を」学ぶかということには二次的な重要性しかない。重要なのは「学び方」を学ぶことだからです。

内田樹「日本辺境論」より
by saitoru1960 | 2010-08-19 18:09 | ドキリとしたこと

劣等感がうみだすもの③

日本人の召命

明治初年に日本は英語、フランス語、ドイツ語で書かれた大量の文献を翻訳しました。その過程で、わずか二十年ほどの間に、現在私たちが使っている自然科学、社会科学関連の術語のほとんどは訳語として作られました。(「自然」も「社会」も「科学」もかれらの発明です)

別にアカデミー・フランセーズのような中枢的な組織があって訳語を統一したわけではありません。福沢諭吉や加藤弘之のような学者たちが次々と試訳を作り、その中で使い勝手のよいものが残ったのです。

よく知られているように、philosophyに「哲学」という訳語を当てたのは西周です。西はそのほかに主観、客観、概念、観念、命題、肯定、否定、理性、悟性、現象、芸術、技術などの訳語を作り出しました。そして、その訳語が中国でも用いられた。

中江兆民の『民約論』はルソーの『社会契約論』をフランス語から直接漢訳したものです。
なぜ、中国の人たちは日本人の作った漢訳を読み、自身で訳さなかったのか。

日本人にとって、欧米の翻訳とは要するに語の意味を汲んでそれを二字の漢字に置き換えることだったからです。西周の例を見てわかるように、彼がしたのも実は日本語訳ではなく漢訳なのです。外国語を外国語に置き換えただけです。ベースになるスポンジケーキは同じものを使い回しで、トッピングだけ変えたのです。日本語が二重構造を持っているから、これは可能だった。

でも、清末の中国人にはそれと同じことができなかった。不可能ではなかったでしょうけれど、つよい心理的抵抗を感じた。これまで中国語になかった概念や術語を新たに語彙に加えるということは、自分達の手持ちの言語では記述できない意味がこの世界には存在するということを認めることだからです。

自分たちの「種族の思想」の不完全性とローカリティーを認めることだからです。ですから、中国人たちは外来語の多くをしばしば音訳しました。外来語に音訳を与えるということは、要するに「トランジット」としての滞在しか認めないということです。母語に振るメンバーとしては加えない、それが母語の意味体系に変更を加えることを認めないということです。

現に、清末の洋務運動は近代化をめざしながら、イデオロギー的には「中体西用」論から抜け出ることができませんでした。西洋の「用」(武器や軍艦)はすぐれているけれど、「体」(制度や文化)は中国の方が上位であり、西洋の文物ももとをただせば、みな中国起源のものであるという自民族中心主義的な思想です。

明治維新の後の日本はそういう考え方はとらなかった。何しろ外来の語に「真名」の地位を譲り、土着の方を「仮名」すなわち一時的で、暫定的なものとして扱うという辺境固有の言語観になじんできたわけですから、外来語―ということは「強者の種族の思想」ということです-の応接は手馴れたものです。明治の日本が中国や李氏朝鮮を取り残してすみやかな近代化を遂げ得た理由は、この日本語の構造のうちに読み取ることができるだろうと私は思います。

かつて岸田秀は日本の近代化を「内的自己」と「外的自己」への人格分裂という言葉で説明したことがありました。
世界標準に合わせようと卑屈にふるまう従属的・模倣的な「外向きの自己」と、「洋夷」を見下し、わが国の世界に冠絶する卓越性を顕彰しようとする傲岸な「内向きの自己」に人格分裂するというかたちで日本人は集団的に狂ったというのが岸田の診断でした。

この仮説は近代日本人の奇矯な振る舞いを見事に説明した理論で、現在に至るまで有効な反証事例によっては覆されてはいないと思います。岸田の理論に私が付け加えたいと思うのは、この分裂は近代日本人に固有のものではなく、列島の「東夷」という地政学的な位置と、それが採用した脳内の二箇所を並行使用するハイブリッド言語によって、「外」と「内」の対立と架橋は私たちの文化の深層構造を久しく形成していたというアイディアです。
by saitoru1960 | 2010-08-19 18:07 | ドキリとしたこと

劣等感がうみだすもの②

日本語の特殊性

日本語はどこが特殊か。それは表意文字と表音文字を併用する言語だということです。
漢字は表意文字です。かな(ひらがな、かたかな)表音文字です。表音文字は図像で、表音文字は音声です。私たちは図像と音声の二つを並行処理しながら言語活動を行っている。でも、これはきわめて例外的な言語状況なのです。

脳の一部に損傷を受けて文字が読めなくなる事例がいくつか報告されています。文字処理を扱っている脳部位が外傷のよって破壊された結果です。

欧米語圏では失読症の病態は一つしかない。文字が読めなくなる。それだけです。
ところが、日本人の場合は病態が二つある。「漢字だけが読めない」場合と「かなだけが読めない」場合の二つ。漢字とかなは日本人の脳内の違う部位で処理されているということです。だから片方だけ損傷を受けても、片方は機能している。

日本人の脳は文字を視覚的に入力しながら、漢字を図像対応部位で、かなを音声対応部位でそれぞれ処理している。記号入力を二箇所に振り分けて並行処理している。だから、失読症の病態が二種類ある。

言語を脳内の二箇所で並行処理しているという言語操作の特殊性はおそらくさまざまなかたちで私たち日本語話者の思考と行動を規定しているのではないかと思います。
by saitoru1960 | 2010-08-19 18:04 | ドキリとしたこと

劣等感がうみだすもの①

「学ぶ力」の劣化

「学び」という営みは、それを学ぶことの意味や実用性についてまだ知らない状態で、それにもかかわらず、これを学ぶことがいずれ生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことであるだろうと先駆的に確信することから始まります。「学び」はそこからしか始まりません。

私たちはこれから学ぶことの意味や有用性を、学び始める時点では言い表すことができない。それを言い表す語彙や価値観をまだ知らない。その「まだ知らない」ということがそれを学ばなければならない当の理由なのです。そういうふうな順逆の狂った仕方で「学び」は構造化されています。

「学ぶ力」というのは、あるいは「学ぶ意欲」というのは、「これを勉強すると、こういう『いいこと』がある」という報酬の約束によってかたちづくられるものではありません。その点で、私たちの国の教育行政官や教育論者のほとんどは深刻な勘違いを犯しています。

子供たちに、「学ぶと得られるいいこと」を、学びに先立って一覧的に開示することで、学びへの意欲が高まるだろうと彼らの多くは考えていますが、人間というのはそんな単純なものでありません。「学ぶ力」「学びを発動させる力」はそのような数値的・外形的なベネフィットに反応するものではありません。

「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」のことです。自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです。
ですから、もし「いいこと」の一覧表を示さなければ学ぶ気が起こらない、報酬の確証が与えられなければ学ぶ気が起こらないという子どもがいたら、その子どもにおいてはこの「先駆的に知る力」は衰弱しているということになります。

私たちの時代に至って、日本人の「学ぶ力」(それが学力ということの本義ですが)が劣化し続けているのは「先駆的に知る力」を開発することの重要性を私たちが久しく閑却したからです。

今の子どもたちは「値札の貼られているものだけを注視し、値札が貼られていないものは無視する」ように教えられています。その上で、自分の手持ちの「貨幣」で買えるもっとも「値の高いもの」を探し出すように命じられている。幼児期からそのような「賢い買い物」のための訓練を施された子どもたちの中では、「先駆的に知る力」はおそらく萌芽状態のうちに摘まれてしまうでしょう。

「値札がついていないものは商品ではない」と教えられてきた子どもたちが「今はその意味や有用性が表示されていないものの意味や有用性を先駆的に知る力」を発達させられるはずがない。
けれども、この力は資源の乏しい環境の中で(ということは、人類が経験してきた全歴史のほとんどにおいて)生き延びるために不可欠の能力だったのです。

この能力を私たち列島住民もまた必須の資質として選択的に開発してきました。狭隘で資源に乏しいこの極東の島国が大国強国に伍して生き延びるためには、「学ぶ力」を最大化する以外になかった。

「学ぶ」力こそは日本の最大の国力でした。ほとんどそれだけが私たちの国を支えてきた。ですから、「学ぶ」力を失った日本人には未来がないと私は思います。現代日本の国民的危機は「学ぶ」力の喪失、つまり辺境の伝統の喪失なのだと私は考えています。
by saitoru1960 | 2010-08-19 18:03 | ドキリとしたこと

キャタピラー

f0013998_1942242.jpgシネリーブルが満員で驚いた。
火曜日でレディースデイということも手伝っているのかもしれないけれど、13:50の回は20分前に劇場にいっても、すでに一杯状態で、立ち見客さえいるというありさま。
15:40からの予約番号22,23を手にして、島田ギャラリーと播磨屋のせんべい食べ放題(?)で時間をつぶした。
前売り1000円。当日でも1300円という値段。
終戦記念日にこだわった封切りの日。
監督の意思を感じさせられる内容だった。
帰国後5年たって手に入れた自分の身体を動かし移動する術。
それを終戦日に意を決して使い、自分の意思を表現できたことは、彼にとっては幸せなことだったのだろう。
by saitoru1960 | 2010-08-17 19:03 | 映画

帰國~倉本聰

終戦。

あれから六十余年が過ぎ、戦争の記憶は風化しつつある。日本がアメリカと戦ったことすら知らない子どもたちがいるという。忌まわしい過去を忘れることも、幸せな生き方といえるかもしれない。だが。

少年時代をあの戦争の中で過ごした僕らの世代にとって、国の命令で国のために散華した当時の若者たちの心情を想うとき、ただ“忘れた”では済ませられない、深く厳しい想いがある。
景気景気と狂奔し、豊かさの中で有頂天に騒いでいる今の日本人の姿を見たら、今、南海の海に沈んだままの数十万体の英霊たちは、一体どのように感じるのだろうか。

戦後間もなく棟田博氏が書かれた『サイパンから来た列車』という、短編小説の秀作がある。敗戦後十年の八月十五日。東京駅の人気のない深夜に、一台の幻の軍用列車が着き、サイパンで玉砕した英霊たちが夜明けまでの一刻、復興した東京を見て歩くという卓抜な発想の物語である。この発想が、永年僕を捉えていた。

戦後十年目の日本人と、戦後六十余年たった現在の日本人の生き方、心情は、それこそ極端に変わってしまった。戦後十年目に帰還した英霊は、日本の復興を喜んだかもしれないが、あれよあれよという間に、経済と科学文明の中で己を見失って狂奔している今の日本人の姿を見たら、一体、彼らは何を想うのか。怒りと悲しみと絶望の中で、ただ唖然と立ち尽くすのではあるまいか。

その六十余年を生きて来て、そうした変化にずっと立ち会ってきた僕ら自身でさえ、この急激な変量の中で唖然と立ちすくんでいるのだから、六十余年の空白を経て浦島太郎のようにこの国に戻り立った英霊たちの驚愕は、想像するに余りある。

これは鎮魂のドラマであり、怒りと悲しみのドラマでもある。
もう先のない僕らの世代が、一つの時代の小さな証人として遺しておかねばと思い、書き下ろしたものである。
by saitoru1960 | 2010-08-15 19:31 | 物語

手紙 ~ 帰國の中で


年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしても

どうかそのままの私のことを理解して欲しい

私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても

あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい

あなたと話をする時 同じ話を何度も何度も繰り返しても

その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい

あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本の暖かな結末は

いつも同じでも 私の心を平和にしてくれた

悲しい事ではないんだ 消え去っていくように見える 私の心へと

励ましのまなざしを向けて欲しい

楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり

お風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい

あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて

いやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを

悲しい事ではないんだ 旅立ちの前の準備をしている私に

祝福の祈りを捧げて欲しい

いずれ歯も弱り 飲み込む事さえ出来なくなるかも知れない

足も衰えて立ち上がることすら出来なくなったら

あなたが か弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように

よろめく私に どうかあなたの手を握らせて欲しい

私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい

あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらいことだけど

私を理解して支えてくれる心だけ持って欲しい

きっとそれだけでそれだけで 私には勇気がわいてくるのです

あなたの人生の始まりに私がしっかり付き添ったように

私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい

あなたが生まれてくれたことで私が受けた多くの喜びと

あなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい

私のこどもたちへ

愛するこどもたちへ
by saitoru1960 | 2010-08-15 19:20 | ドキリとしたこと

心動かされたことを忘れぬように


by saitoru1960