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雨ニモマケズ

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ
by saitoru1960 | 2011-03-31 22:09 | ひとりごと

いかりをあげよ

f0013998_18513431.jpg分厚いためなかなか進まないけれど、「おはなし」としてかなり面白く読み進んでいる「錨を上げよ」。
いよいよラスト2章になってしまった。
本屋さん大賞がまもなく発表されるけれど、自分の中では「悪の経典」より「錨を上げよ」に軍配を上げてしまう。
面白い!

人はしばしば最も困難な道を行こうとする時こそ、
著しく誇りと満足感を覚える。
たとえば冒険家や殉教者の多くがそうだし、
あるいはヒンズーの苦行もその一つだろう。
<第6章「停泊」より>
by saitoru1960 | 2011-03-28 18:55 | 物語

こだまでしょうか

こだまでしょうか

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
 
「ばか」っていうと
「ばか」っていう。
 
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
 
そうして、あとで
さみしくなって、
 
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
 
こだまでしょうか、
いいえ、だれでも。

震災後、テレビでずっと流れているACのCM。

仏教には、「代受苦者」(だいじゅくしゃ)ということばがあるそうです。
 私が受けたかもしれない苦しみを、代わりに受けてくださった人、ということでしょう。永観堂の法主さまからお聴きした時、深く心にしみました。
 自分のこととして受けとめ、出来ることを少しでも始めていきましょう。そして、なにより、こういう時だからこそ、私たち一人ひとりが、きちんと日々を過ごすことで、しっかりとこだまし合いたいと強く思います。
金子みすゞ記念館 矢崎節夫


2007年 01月 31日 「子供の心」

光が学校で借りた金子みすず童謡集「わたしと小鳥とすずと」に、次のような文章が載っている。

大人になっていくにしたがってわたしたちは、いろんなことがらを学びます。ところでどうでしょう、子供の頃しか感じなかったたのしいこと、こどもだったからこそ空想することのできたすばらしいこと、それはこどもからはじまった自分だったことをわすれるのといっしょに、わすれがちです。

「おとなはかんがえなあかんことがたくさんあるから、たのしいことがわからんようになるんやで。こどもはかんがえなあかんことがそんなにないから、たのしいことはわかるんや」

先週、職員会議で修学旅行のことで、「賛成せんかった先生たちは、楽しくなかったんやろか」と、夕ご飯を食べながら話すと、光はそういった。

本から子供の心に入っていくことばのなめらかさを、おとなはやはり忘れている。

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私と小鳥と鈴と

  私が両手をひろげても、
  お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のように、
  地面を速く走れない。

  私が体をゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴る鈴は私のように、
  たくさんな唄は知らないよ。

  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。

     ※地面(じべた)
by saitoru1960 | 2011-03-26 23:06 | 心にのこる

東北人の強さ・経験者の強さ


by saitoru1960 | 2011-03-20 07:09 | 心にのこる

2つの電話

深夜、夢の中で電話のベルが鳴っていることに気づいた。
気づいてから、夢なのかどうかわからずベルはしばらく鳴り続け、他の家族が起きてしまうと、布団から出た。
自分では深夜の2時か3時ころのイメージで、間違い電話か悪い知らせではないかと受話器を取り、小さく「もしもし」といった。

すると突如として意味不明な音が受話器から大きくがなりたてられはじめた。
真夜中のいたずら電話と瞬間的に感じ、耳から受話器を少し外して音をそばだてて聞くと、何か必死にしゃべっている。

何語でしゃべっているのかも分からず、眠っていた大脳を必死に覚醒させようとしながら聞き続けると、相手は何か必死に尋ねている口調だった。

「・・・・・・・スジャ・・・・・・」と聞こえた。

「スジャ、スジャ、スジャ、! モルディブのスジャだ!」

「アイノウ アイノウ スジャ。スジャサリーム アイ リメンバー ユー !」

と、わたしは受話器をもちかえ、大きな声で英語を話した。

スジャは、うれしそうな高い声をあげ、「コーチ ! ハワイ ユー」と聞いてきた。
スジャは矢継ぎ早に、次々と英語をしゃべり続け、自分は、ファイン!とこたえ、サンキューを何度も何度も言っていた。

「連絡を長い間できなくてごめん。電話番号を書いた紙がどこかにいってしまって、コーチの連絡先がわからなかったんだ」
と、スジャらしい、やさしい心づかいと言い訳を最初に話し、スジャはテレビで見た津波の影響を電話口で心配そうに聞いてくるのだった。

日本イコールサイトウコーチの国、というだけで、津波に襲われるサイトーを想像し、遠く日本まで国際電話をかけてくれたのだった。
当時から、いつも優しい心遣いでまわりに接し、今は学校で先生をしているというスジャの気持ちが素直にうれしくて、なんとかその気持ちをスジャに伝えたくて、英語で聞くこと、話すことに思考回路を変換させようと必死になった。

英語での話を聞きながら、ディベヒ語でも話せるはずなのに、という気持ちが頭をかすめ、言語回路にもうひと回路つけ加えようとしたが、それは不可能だった。
しばらく使っていない英語会話回路を必死に引き出そうとする大脳には少しの余裕も残っていなかったのだ。

「誰からこの電話番号を聞いたんだ?」と尋ねると、

「友達の友達から新しい日本の陸上コーチに聞いてもらった」と返事がきた。

竹原とのつながりがここでも役に立つことになった。

「コーチ、そこはなんていう場所だ」、
「コウベだ」、
「コウベだな」、
「あの頃コーチに教えてもらったことで今の自分に役立っていることがたくさんある。本当にありがとう」

などと、暗闇の中で話しながら、「じゃあ、また連絡するから。元気で」とモルディブと神戸の間での国際電話は終わった。

帰国後20年。スジャからかかってきた初めての電話だった。

電話を切り、時計を見るとまだ12時になったばかりだった。
マーレとの時差は4時間。向こうはまだ夜8時になったところだった。
受話器の向こうに聞こえるスジャの娘の叫び声が、明るく心が和んだ。
布団に戻ると、なんであの時ディベヒ語がでてこなかったんだろうと気になり、なかなか睡魔がやってこなかった。

昼、職員室で仕事をしていると森田ジーから牛澤さんから電話連絡が届いたというメールが来た。
すぐに教頭席から多賀城に電話をかけると、地震後初めての通話音が聞こえ、すぐに牛澤さんの声が聞こえてきた。
ニコニコしながらも抑えきれない涙がとまらなかった。
周りに人が少なかったので、受話器を置いた後もしばらく人目を気にせず余韻に浸ることができた。

「大丈夫、協力隊だから」、というひとことが耳に残り、牛澤さんはそのことばを自分が口から出せるだけ楽になれるのではないかと思った。
by saitoru1960 | 2011-03-19 05:08 | 心にのこる

震災の年、巣立つ若者へ贈る校長のことば

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。

 諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。
 また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。

 とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。

 未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。

 このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。

 諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。

 大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。

 大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。

 多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。

 楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。

 君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。

 学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。

 誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。

 大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。

 言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

 中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。

 大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。

 大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。

 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。

 「今日ひとりで海を見てきたよ。」

 そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

 悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。

 時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。

 いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。

 いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。

 海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。

 真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。

 鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。

 教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。

 「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32


 一言付言する。

 歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。救援隊も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということは何か。そのことを考える。

 泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。

 今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。

 被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するととともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。

 巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。

 本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)

 被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。

 梅花春雨に涙す2011年弥生15日。


立教新座中学・高等学校

校長 渡辺憲司
by saitoru1960 | 2011-03-18 20:55 | ドキリとしたこと

大西先生が教えてくれたことば





君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり

歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。

きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。

ご苦労だと思う。

しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、

外国から攻撃されて国家存亡の時とか、

災害派遣の時とか、

国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。

言葉を換えれば、君たちが日蔭者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。

どうか耐えてもらいたい。

昭和32年 第一回防衛大学校 卒業式にて 吉田茂

奥華子『変わらないもの』の歌詞
by saitoru1960 | 2011-03-17 22:52 | ドキリとしたこと

チェルノブイリの教訓

福島原発震災――チェルノブイリの教訓を生かせ

 3月13日午後8時の時点で、東京電力福島第1原子力発電所1、2、3号機、第2原子力発電所1、2、4号機と、計6基の原子炉の冷却装置が震災の影響で作動せず、「緊急事態」にいたっている。
 12日には第1原発1号機の建屋が水素爆発で吹き飛び、放射性物質が外部へ飛散し、住民が被曝しているが人数などはまだ確定していない。このような事象を「原発震災」という(注①)

 東京電力の沸騰水型原子炉の場合、3つの防護壁が用意されている。原子炉圧力容器、格納容器、そして建屋だ。1号機の建屋はこなごなに吹き飛んだが、厚さ1.5-2mもある頑丈な構造物だから、爆発の映像は衝撃的だった。
 枝野官房長官の記者会見によれば、格納容器は損傷していないということだから、膨大な放射性物質が大気へ出たわけではない。しかし、膨大ではないが大量の放射性物質が出たことは間違いない。

 現に2キロ圏内で避難の遅れていた病院と特別養護老人ホームにいた人、3キロ離れていた場所を移動中の避難住民、計190人が被爆した可能性があり、22人の被曝を確認している。被曝者はこれからもっと増えることになるだろう。除染など万全の処置が必要である。
 なお、現在、第1原発の1、2、3号機がすべて格納容器内の圧力を下げるため、断続的に放射性物質を含む気体を大気へ逃がしているため、放射性物質は爆発事故の前から現在にいたるまで、大気へ出ているのである。

 政府が広い地域で周辺住民を避難させているのはそのためだ。なお、この3号機はプルサーマルの燃料を使用しているので、プルトニウム混合化合物が燃料棒に乗っていることを忘れてはならない。
 では、どのくらいの量が大気に飛散しているのだろうか。飛散した放射性物質の量についての発表はない。放射線量の計測結果だけである。また、どのような物質が出ているのか。ヨウ素とセシウムを検出したとだけ一度発表されている。

 現在進行形の福島原発震災を考える際、参考にすべきは25年前のチェルノブイリ原発事故(1986年)である。32年前のスリーマイル島原発事故(1979年)に類似しているという説もあるが、建屋が吹き飛ぶ爆発を起こしたのはチェルノブイリだけである。
もちろん、原発の構造も規模も事故の性質も違うことはわかっている。事故を起こしたチェルノブイリ原発4号機(旧ソ連、現ウクライナ)の場合、原子炉の外は建屋で、福島のように格納容器はない。したがって原子炉の暴走、爆発によって建屋が崩壊すると、一挙に膨大な放射性物質が上空高くまで飛散することになった。

 福島第1の1号機建屋内の水素爆発で崩壊したのも建屋構造物だが、チェルノブイリとは異なり、崩壊したのは建屋だけで、格納容器は損傷していない。核分裂反応の暴走による大爆発ではない。これは留意しておこう。
 したがってチェルノブイリ級の重大事故のレベルではないが、世界史的に見てチェルノブイリ原発事故に次ぐ大事故であることはたしかだ。

 しかも、危機は去っていない。ほかの5基の原子炉も冷却装置が作動しなくなっており、冷却剤の注入はこれからだ。核物質の崩壊熱はどんどん上昇している。1号機の冷却剤は海水である。これは未経験の事態だ。世界中が固唾を飲んでニュースを見ている所以である(3号機も海水注入)。
 以上のように、構造と規模と事故の性質の違いを考慮しても、チェルノブイリ原発事故後の当局の対応、飛散した放射性物質とその影響を振り返っておく価値はある。

 チェルノブイリ事故では、ソ連政府は半径30キロ圏内の13万5000人を避難させ、立ち入り禁止とした(25年後の現在も同様)。
 福島事故では、当初第1原発の3キロ圏内、次に10キロ圏内からの避難を命じ、1号機爆発後は20キロと拡大している。第2原発は10キロ圏内からの避難を勧告している。両発電所からの避難圏は重なっており、避難住民は約8万人である。

1号機の冷却を首尾よく処理できても、危険な状態の原子炉がまだ5基もある。「最大事故を想定」(枝野官房長官)しているならば、まずは30キロ圏内からの脱出を準備すべきだ。この距離の根拠はチェルノブイリの経験である。重大事故の場合はまず30キロから脱出。このチェルノブイリ基準くらいしか人類に経験はない。
 飛散した放射性物質はヨウ素131とセシウム137である。チェルノブイリ原発事故は1986年4月26日に起きたが、2か月後の6月に英国で羊からセシウムが検出され、イタリアでは汚染したウサギ数万匹を処分している。8月にはトナカイからも検出されている。木の実や植物に付着したセシウムを動物が摂取し、食肉にしようとして検出されたということだ。

 直接的な被曝は半径30キロ圏立入禁止措置である程度封じられたとしても、2か月経って食物に取り込まれ、西ヨーロッパまで拡散したことになる。
 放射性ヨウ素は半減期が8日と短く、影響は数キロ圏だと思われる。ヨウ素は甲状腺に蓄積され、約10年後に甲状腺機能障害や甲状腺がんになる可能性が高い。現在もウクライナで患者が多い。

 予防措置としてヨウ素を排出させるヨウ化カリウム溶液が福島で投与されている。原発立地地域にはあらかじめ配備されているのだ。ヨウ素をさんざん取り込んだ後では無意味なので、福島で投与を開始したのは正しい判断である。
 セシウム137の半減期は30年、チェルノブイリ事故から2011年で25年だから、ようやく半減期に近づいたところだ。セシウムはヨウ素よりやっかいである。生物の体内に取り込みやすく、長期間にわたって放射線を出す(崩壊していくときに出る)。放射線は細胞どころか遺伝子を傷つけ、がんを誘発する。体内に取り込むと内部から放射線を出すので人体に強い影響を及ぼす。これを体内被曝という。

 そのセシウムが食物連鎖をたどって動物に現れたのがチェルノブイリ事故から2か月後だったわけだ。5か月後の1986年9月にはフィリピンでオランダ製の粉ミルクからセシウムが検出された。5か月で加工食品に出てきた。
9か月後の1987年1月、日本の厚生省がトルコ産ヘーゼルナッツから520-980ベクレルのセシウムを検出したと発表した。当時の安全基準は370ベクレルだった(注②)。つづけて、スパゲッティ、マカロニ、菓子、チーズなどから検出されている。輸入加工食品が出回り始め、東アジアへ到達したのである。

 チェルノブイリ事故後、約2年間にわたってこのように輸入食品からセシウムが検出され続けた。
 福島原発震災はまだ収束したわけでない。今のところチェルノブイリ級の下に位置する世界的な重大事故であり、しかも国内だから、食物からのセシウムの検出が政府の重要な職務になるだろう。

 パニックになる必要はない。まず原発に近い住民の方は、野菜、キノコ、果物をよく洗ってから食べること。放射能の除染作業とは水で洗い流すことなのである。
 政府は今後、放射性物質の検査を各地で頻繁に行ない、すぐに公表すること。すでに大量のセシウムやヨウ素が飛散したという前提で行なう必要があるが、飛散による被曝の危険性は30キロ離れれば問題ない。しかし食物に入り込むとはるかに広域へ拡散することになる。風評被害が起きる可能性があるが、これを避けるためにも検査の充実と公表の迅速さが求められる。

 全国の自治体が協力すれば、より正確な情報を得られ、国民全体にも国際的にも利益になるだろう。これが第2のチェルノブイリの教訓である。
 福島原発で冷却材を注入する危険な作業を行なっている東京電力と自衛隊のみなさんに敬意を表しつつ、制限被曝量を必ず守って作業を完成させることを期待したい。

(文/ダイヤモンド社論説委員 坪井賢一)

注① 地球科学者の石橋克彦・神戸大学名誉教授は、原子力当局の想定を超える巨大地震が起きた場合、原発は大きく損傷して大事故にいたる、と主張し、「原発震災」と名付けた。

注② 1986年のセシウム食品安全基準は、食物1キログラム当たり370ベクレルだった。日本では現在、飲料水・牛乳・乳製品が200ベクレル、野菜類・穀類・肉類・卵などが500ベクレルを指標としている。ベクレルとは、放射性物質が放射線を出して別の物質に変化する時間を単位にしたもの。1秒間に1回変化すると1ベクレル。1ピコキュリーは0.037ベクレル、つまり37ベクレルが1000ピコキュリーである。cy
by saitoru1960 | 2011-03-16 22:26 | ドキリとしたこと

自然と人間

3月11日、金曜日の朝。
長田の市場から新湊川の遊歩道に入ったところの柳の枝に薄い黄緑色を見つけた。
相変わらずウインドブレーカーを着て走る気温だけれど、新芽はきちんと季節を感じている。

午後。
逃げる車を簡単に飲み込む、逆流する大きな海がテレビに映し出された。
アクセルを力一杯踏み込む車のスピードは時速何キロなのか。
自分はそれを空の上から見ている。
川の遡るスピードが速すぎて現実とは程遠い意識の中で。

観測史上最大のマグニチュードは、今後8.8を超える地震が起これば当然更新される。
想定内の耐震基準で建造された原子力発電所は、今後起こりうる観測史上最大のマグニチュードに、再び「想定外」と言い訳を繰り返すのか。
「天災」=風水害・地震・落雷など、自然現象によってもたらされる災害。(大辞林)
人間の力ではどうしようもない力が存在することをイメージすることが出来さえすれば、想定の内・外をことばとしては使えないはずだ。

大きな海に飲み込まれ翻弄される人達の無念さを想像するしかない。
by saitoru1960 | 2011-03-12 22:09 | ドキリとしたこと

篠山2011

練習してきたことしか試合ではできない。
左のアキレス腱が悲鳴を上げる前に、股関節周りとふくらはぎ、そして左足首の内側がいうことをきかなくなった。
足が前に出ず、出そうとするとつりそうになる。
左足首の内側はなんでそっちに引っ張るのかわからないつり方だった。
キネシオテープを張っていたにもかかわらず足首を内転させるため、思わず急激にスピードダウンせざるを得なかった。

40代はじめ頃の、あまり練習をせずに篠山を走っては、「練習をしなければこんな風にしかゴールまでこれないのだ」と、自責の念をもって「もうやめよう」と認識させられた、あの感覚に似たような脚の状態だった。
歩くよりはゆっくりでも走った方が早くゴールできるから、という低いモチベーションで動かない体に鞭を打っていた。
ラストの2kmはキロ7分もかかっていた。

去年の東京以来、この1年で走ってきた距離は3707km。1日平均10.2km。
一定のスピードで長い距離を走ることがこの2か月の間できなかったことがやはり大きい。
自分の体が覚えていた自然なスピードは15kmまではキロ4.45。
去年の東京と較べても、ハーフまではほぼ同じタイムだった。
(今回1.41.00、東京2010:1.40.57)

少し休憩して、また走り始めよう。

<0-5km>4.57/4.48/4.39/4.39/4.42(23.47)
<5-10km>4.47/4.37/4.38/4.43/4.41(23.29/47.16)
<10-15km>4.45/4.45/4.47/4.47/4.45(23.50/1.11.06)
<15-20km>4.45/4.52/4.51/4.52/4.54(24.16/1.35.22)
<20-25km>5.06/5.01/5.01/4.58/4.54(25.02/2.00.24)
<25-30km>5.18/4.52/5.06/5.12/5.29(26.00/2.26.24)
<30-35km>6.20/5.47/5.52/5.44/5.56(29.41/2.56.05)
<35-40km>6.22/6.20/6.28/6.29/6.40(32.22/3.28.27)
<40-goal>7.19/6.51/1.21 Goal < 3.44.00 >
5.18@1km

f0013998_22344187.jpg
走り終わって食べた牛とろ丼。久しぶりに食べてみると、やはりうまかった。
by saitoru1960 | 2011-03-06 22:35 | ランニング

心動かされたことを忘れぬように


by saitoru1960
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