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TOEIC

生まれて初めてTOEICを受験。
3月下旬から、5時前に起きて6時まで1時間。1日も休まずに問題集と単語集を相手に学習する日々を送った。
久しぶりに脳を回転させる活動をするといろんなことが起こってきた。
急に高3の「シケタン」の単語を思い出したりもした。
6月26日受けた結果が昨日届いた。
500点を最低ノルマとし、あわよくば640点を越える、という密かな目標も掲げていた。
でも、試験終了後は、500点が取れてないことはないだろうな、という程度で、何点とれたという実感は全くもてなかった。
結果は、630点。
希望的得点からマイナス10点という数字で、なんとも意味深な結果となった。
ノルマの500点は越えたので、これでもう受験することはないだろう。

630点というのがどの程度のものなのか実感がないので、いろいろ調べてみると以下のようなものが見つかった。とりあえずは英検2級合格か、という程度のようだ。

<メモ>
TOEICスコア600点のレベル

海外に一人で旅行できたり、短い文のやりとりや、相手に質問ができるレベル。多くの企業が最低基準としているスコアになります。転職を考えてる人は必ずクリアーしたいレベルです。

コミュニケーション能力:ゆっくり話してもらえれば、コミュニケーションがとれるレベル
英検との比較:英検2級レベル
必要単語数:4000〜5000単語が目安
企業での評価:中途採用での基準(600点以上)と同じレベル

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by saitoru1960 | 2016-07-20 05:57 | いろいろ

愛校心

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2016年7月16日。
PL学園野球部の休部が決まった翌日の毎日新聞。
水戸支局長は関大出の石井と同い年の男だった。
心のおりが少しだけでも取り除かれることになったのか・・。
by saitoru1960 | 2016-07-16 05:54 | 心にのこる

永六輔の言葉

Q. 好きな人に告白する言葉を教えて (小6・女の子)
A. 永先生:言葉は一番大切です。でも、好きな人に「あ、この子好きだな」とか「いい人だな」と思われるには、「おなべをいっしょに食べて同じものをおいしいと思う」、「夕やけを見て、両方が美しいなと思う」というような同じ感動を同じ時点で受け止めるのが一番効果があります。
例えば、「いただきます」とか元気な声で言っていると、それだけで「あの子いただきますって言ってるな。きっといい子なんだろうな」と思うじゃないですか。「あなたがすき」ですとか、「キミを僕のものにしたい」とか、「世界のどこかで待ってる」とか、そういうのはあんまり効果がありません。
「きれいだな、おいしいな、うれしいな」ということが同時に感じあえる環境が一番大事。だから、「好きです、嫌いです」という言葉ではなく、いい言葉を使っている子は好きになれる。「あの人ならこの言葉は好きだろうな」と思った言葉を何気なく使っているときの方がドキンとします。「あなたが好きです」というのは最悪な言葉です。
だから、いっしょの環境にいるときに同じ感動をする場面に出来るだけいっしょにいる。スポーツの応援でもいいです。そうすると、使いあっている同じ言葉にドキンとすることがあって、それが愛なんです。
自分でいうのもおかしいけど、ひとりでご飯を食べてておいしいことないです。ひとりで野菜を食べているときは本当にさみしい。やっぱり家族、好きな人といっしょのほうがいい。二人っきり、まずはふたりになること。きれいな言葉を使いあうこと、きれいなことに感動すること、ふたりで声をそろえて感動してください。
放送タレント 永六輔 先生
by saitoru1960 | 2016-07-14 05:38 | 心にのこる

バットを振る

七月。
その日の朝は雨が降っていた。
グラウンドで練習ができない時によく見られるように、野球部員たちが数名体育館入口の雨に濡れない場所でバットを振っていた。
ガラス扉の前は自分のフォームをチェックできるベストポジションになる。
この朝その場所にいたのは双子の長田兄弟だった。

前日は選手権前の最後の「背番号渡し」の日だった。
事前に新聞発表された一回目のメンバー選出。
そして最終選考になるこの日、背番号をもらえなかった三年生にとっては、
君はもう
試合でマウンドに立つことも
バッターボックスに立つことも
守備につくことも100%ありません
と、高校野球の終焉を告げられた日だった。
ベンチに入れる二十人の中に弟の陸は選ばれ兄の樹は選ばれなかった。

野球部の朝練習は自由参加で、この朝、雨も降り背番号をもらえなかった部員の中には出てこない者も多かった。
でもそんな中、長田兄弟はいつもの時間に登校し、いつものようにバットを振っていた。
途中一度、樹は陸に脚のつき方や左腰の動きなどのアドバイスをしていた。
そしてまた、二度とバッターボックスに立つこともないのに、樹は一人ガラス扉に向かってバットを振り始めた。
今まで数えきれないほど繰り返してきた様に淡々と。

by saitoru1960 | 2016-07-14 04:56 | 心にのこる

「一銭五厘の旗」

戦時、人は葉書一枚一銭五厘で徴兵された。この文章当時、はがきは7円。
■■■
美しい夜であった
もう 二度と 誰も あんな夜に会うことは ないのではないか
空は よくみがいたガラスのように 透きとおっていた
空気は なにかが焼けているような 香ばしいにおいがしていた
どの家も どの建物も つけられるだけの電灯をつけていた
それが 焼け跡をとおして 一面にちりばめられていた
昭和20年8月15日
あの夜 もう空襲はなかった
もう戦争は すんだ まるで うそみたいだった
なんだか ばかみたいだった へらへらとわらうと 涙がでてきた
どの夜も 着のみ着のままで眠った
枕許には 靴と 雑のうと 防空頭巾を 並べておいた
靴は 底がへって 雨がふると水がしみこんだが ほかに靴はなかった
雑のうの中には すこしのいり豆と三角巾とヨードチンキが入っていた
夜が明けると 靴をはいて 雑のうを肩からかけて出かけた
そのうち 電車も汽車も 動かなくなった
何時間も歩いて 職場へいった そして また何時間も歩いて家に帰ってきた
家に近づくと くじびきのくじをひらく ときのように すこし心がさわいだ
召集令状が 来ている でなければ その夜 家が空襲で焼ける
どちらでもなく また夜が明けると また何時間も歩いて 職場へいった
死ぬような気はしなかった
しかし いつまで生きるのか見当はつかなかった
確実に夜が明け 確実に日が沈んだ
じぶんの生涯のなかで いつか戦争が終るかもしれない などとは夢にも考えなかった
その戦争が すんだ 
戦争がない ということは それは ほんのちょっとしたことだった
たとえば 夜になると 電灯のスイッチをひねる ということだった
たとえば ねるときには ねまきに着かえて眠るということだった
生きるということは 生きて暮すということは そんなことだったのだ
戦争には敗けた しかし 戦争のないことは すばらしかった
軍隊というところは ものごとをおそろしく はっきりさせるところだ
星一つの二等兵のころ 教育掛りの軍曹が 突如として どなった
貴様らの代りは 一銭五厘で来る 
軍馬は そうはいかんぞ 聞いたとたん あっ気にとられた
しばらくして むらむらと腹が立った
そのころ 葉書は一銭五厘だった 
兵隊は 一銭五厘の葉書で いくらでも
召集できる という意味だった (じっさいには一銭五厘もかからなかったが……)
しかし いくら腹が立っても どうすることもできなかった
そうか ぼくらは一銭五厘か そうだったのか
〈草莽(そうもう)の臣〉 〈陛下の赤子(せきし)〉 〈醜(しこ)の御楯(みたて)〉
つまりは 〈一銭五厘〉ということだったのか
そういえば どなっている軍曹も 一銭五厘なのだ 
一銭五厘が 一銭五厘をどなったり なぐったりしている
もちろん この一銭五厘は この軍曹の発明ではない
軍隊というところは 北海道の部隊も 鹿児島の部隊も おなじ冗談を 
おなじアクセントで 言い合っているところだ
星二つの一等兵になって前線へ送りだされたら 着いたその日に 聞かされたのが 
きさまら一銭五厘 だった
陸軍病院へ入ったら こんどは各国おくになまりの一銭五厘を聞かされた
考えてみれば すこしまえまで 貴様ら虫けらめ だった
寄らしむべし知らしむべからず だった
しぼれば しぼるほど出る だった
明治ご一新になって それがそう簡単に変わるわけはなかった
大正になったからといって それがそう簡単に変わるわけはなかった
富山の一銭五厘の女房どもが むしろ旗を立てて 米騒動に火をつけ 
神戸の川崎造船所の一銭五厘が同盟罷業をやって
馬に乗った一銭五厘のサーベルに蹴散らされた
昭和になった
だからといって それがそう簡単に変わるわけはないだろう
満洲事変 支那事変 大東亜戦争
貴様らの代りは 一銭五厘で来るぞ とどなられながら 
一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた 
へとへとになって眠った
一銭五厘は 死んだ
一銭五厘は けがをした 片わになった
一銭五厘を べつの名で言ってみようか
<庶民>
ぼくらだ 君らだ
あの八月十五日から 数週間 数カ月 数年
ぼくらは いつも腹をへらしながら栄養失調で 
道傍でもどこでも すぐにしゃがみこみ 坐りこみながら
買い出し列車にぶらさがりながら 
頭のほうは まるで熱に浮かされたように 上ずって 昂奮していた
戦争は もうすんだのだ
もう ぼくらの生きているあいだには戦争はないだろう
ぼくらは もう二度と召集されることはないだろう
敗けた日本は どうなるのだろう
どうなるのかしらないが 敗けて よかった
あのまま 敗けないで 戦争がつづいていたら
ぼくらは 死ぬまで 戦死するか 空襲で焼け死ぬか 飢えて死ぬか
とにかく死ぬまで 貴様らの代りは 一銭五厘でくる とどなられて 
おどおどと暮していなければならなかった
敗けてよかった
それとも あれは幻覚だったのか
ぼくらにとって 日本にとって あれは 幻覚の時代だったのか
あの数週間 あの数カ月 あの数年 
おまわりさんは にこにこして ぼくらを もしもし ちょっと といった あなたはね といった
ぼくらは 主人で おまわりさんは家来だった
役所へゆくと みんな にこにこ笑って かしこまりました なんとかしましょうといった
申し訳ありません だめでしたといった 
ぼくらが主人で 役所は ぼくらの家来だった
焼け跡のガラクタの上に ふわりふわりと 七色の雲が たなびいていた
これからは 文化国家になります と総理大臣も にこにこ笑っていた
文化国家としては まず国立劇場の立派なのを建てることです と大臣も にこにこ笑っていた
電車は 窓ガラスの代りに ベニヤ板を打ちつけて 走っていた
ぼくらは ベニヤ板がないから 窓にはいろんな紙を何枚も貼り合せた
ぼくらは主人で 大臣は ぼくらの家来だった
そういえば なるほどあれは幻覚だった
主人が まだ壕舎に住んでいたのに 家来たちは 大きな顔をして キャバレーで遊んでいた
いま 日本中いたるところの 
倉庫や物置きや ロッカーや 土蔵や押入れや トランクや 金庫や 行李の隅っこのほうに
ねじまがって すりへり 凹み 欠け おしつぶされ ひびが入り 錆びついた
〈主権在民〉とか〈民主々義〉といった言葉のかけらが
割れたフラフープや 手のとれただっこちゃんなどといっしょに つっこまれた
きりになっているはずだ
(過ぎ去りし かの幻覚の日の おもい出よ)
いつのまにか 気がついてみると おまわりさんは 笑顔を見せなくなっている
おいおい とぼくらを呼び おいこら 貴様 とどなっている
役所へゆくと みんな むつかしい顔をして いったい何の用かね といい
そんなことを ここへ言いにきてもダメじゃないか と そっぽをむく
そういえば 内閣総理大臣閣下のにこやかな笑顔を 最後に見たのは
あれは いつだったろう
もう〈文化国家〉などと たわけたことはいわなくなった
(たぶん 国立劇場ができたからかもしれない)
そのかわり 高度成長とか 大国とかGNPとか そんな言葉を やたらに
まきちらしている
物価が上って 困ります といえば その代り 賃金も上っているではないかといい
(まったくだ)
住宅で苦しんでいます といえば 愛し合っていたら 四帖半も天国だ といい
(まったくだ)
自衛隊は どんどん大きくなっているみたいで 気になりますといえば
みずから国をまもる気慨を持て という
(まったく かな)
どうして こんなことになったのだろう 
政治がわるいのか 社会がわるいのか マスコミがわるいのか 文部省がわるいのか
駅の改札掛がわるいのか テレビのCMがわるいのか となりのおっさんがわるいのか
もしも それだったら どんなに気がらくだろう
政治や社会やマスコミや文部省や駅の改札掛やテレビのCMやとなりのおっさんたちに
トンガリ帽子をかぶせ トラックにのせて 町中ひっぱりまわせば それで気がすむというものだ
それが じっさいは どうやら そうでないから 困るのだ
書く手もにぶるが わるいのは あのチョンマゲの野郎だ
あの野郎が ぼくの心に住んでいるのだ
(水虫みたいな奴だ)
おまわりさんが おいこら といったとき おいこら とは誰に向っていっているのだ といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎がしきりに袖をひいて 目くばせする
(そんなことをいうと 損するぜ)
役人が そんなこといったってダメだといったとき お前の月給は 誰が払っているのだ といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎が 目くばせして とめたのだ
あれは 戦車じゃない 特車じゃ と葉巻をくわえた総理大臣がいったとき
ほんとは あのとき 家来の分際で 主人をバカにするな といえばよかったのだ
ほんとは 言いたかった
それを チョンマゲ野郎が よせよせととめたのだ
そして いまごろになって あれは 幻覚だったのか どうして こんなことになったのかなどと 白ばくれているのだザマはない
おやじも おふくろも じいさんも ばあさんも ひいじいさんも ひいばあさんも そのまたじいさんも ばあさんも 先祖代々 きさまら 土ン百姓といわれ きさまら 町人の分際で といわれ きさまら おなごは黙っておれといわれ きさまら 虫けら同然だ といわれ きさまらの代りは 一銭五厘で来る といわれて はいつくばって暮してきた 
それが 戦争で ひどい目に合ったからといって 戦争にまけたからといってそう変わるわけはなかったのだ
交番へ道をききに入るとき どういうわけか おどおどしてしまう
税務署へいくとき 税金を払うのはこっちだから もっと愛想よくしたらどうだといいたいのに どういうわけか おどおどして ハイ そうですか そうでしたね などと おどおどお世辞わらいをしてしまう
タクシーにのると どういうわけか運転手の機嫌をとり 
ラーメン屋に入ると どういうわけかおねえちゃんに お世辞をいう
みんな 先祖代々 心に住みついたチョンマゲ野郎の仕業なのだ
言いわけをしているのではない
どうやら また ひょっとしたら 新しい幻覚の時代が はじまっている
公害さわぎだ
こんどこそは このチョンマゲ野郎を のさばらせるわけにはいかないのだ
こんどこそ ぼくら どうしても 言いたいことを はっきり言うのだ
工場の廃液なら 水俣病からでも もうずいぶんの年月になる
ヘドロだって いまに始まったことではない
自動車の排気ガスなど むしろ耳にタコができるくらい 聞かされた
それが まるで 足下に火がついたみたいに 突如として さわぎ出した
ぼくらとしては アレヨアレヨだ まさか 光化学スモッグで 女学生バッタバッタ にびっくり仰天したわけでもあるまいが それなら一体 これは どういうわけだ
けっきょくは 幻覚の時代だったが
あの八月十五日からの 数週間 数カ月 数年は ぼくら心底からうれしかった
(それがチョンマゲ根性のためにもとのモクアミになってしまったが)
それにくらべて こんどの公害さわぎはなんだか様子がちがう
どうも スッキリしない
政府が本気なら どうして 自動車の生産を中止しないのだ
どうして いま動いている自動車の 使用制限をしないのだ
どうして 要りもしない若者に あの手この手で クルマを売りつけるのをだまってみているのだ
チクロを作るのをやめさせるのなら 自動車を作るのも やめさせるべきだ
いったい 人間を運ぶのに 自動車ぐらい 効率のわるい道具はない
どうして 自動車に代わる もっと合理的な道具を 開発しないのだ
(政府とかけて 何と解くそば屋の釜と解く 心は言う(湯)ばかり)
一証券会社が 倒産しそうになったとき 政府は 全力を上げて これを救済した
ひとりの家族が マンション会社にだまされたとき 政府は眉一つ動かさない
もちろん リクツは どうにでもつくし考え方だって いく通りもある
しかし 証券会社は救わねばならぬが 一個人がどうなろうとかまわないという式の考え方では 公害問題を処理できるはずはない
公害をつきつめてゆくと 証券会社どころではない 倒してならない大企業ばかりだからだ
その大企業をどうするのだ ぼくらは 権利ばかり主張してなすべき義務を果さない
戦後のわるい風習だ とおっしゃる(まったくだ)
しかし 戦前も はるか明治のはじめから 戦後のいまも必要以上に 横車を押してでも 権利を
主張しつづけ その反面 なすべき義務を怠りっぱなしで来たのは 大企業と 歴代の政府ではないのか
さて ぼくらは もう一度 倉庫や 物置きや 机の引出しの隅から おしまげられたり ねじれたりして
錆びついている〈民主々義〉を 探しだしてきて 
錆びをおとし 部品を集め しっかり 組みたてる
民主々義の〈民〉は 庶民の民だ
ぼくらの暮しを なによりも第一にするということだ
ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ
それが ほんとうの〈民主々義〉だ 政府が 本当であろうとなかろうと
今度また ぼくらが うじゃじゃけて見ているだけだったら
七十年代も また〈幻覚の時代〉になってしまう
そうなったら 今度はもう おしまいだ
今度は どんなことがあってもぼくらは言う
困まることを はっきり言う人間が 集まって暮すための ぎりぎりの限界というものがある
ぼくらは 最近それを越えてしまった
それは テレビができた頃からか 新幹線が できた頃からか 電車をやめて 歩道橋をつけた頃からか
とにかく 限界をこえてしまった
ひとまず その限界まで戻ろう 戻らなければ 人間全体が おしまいだ
企業よ そんなにゼニをもうけてどうしようというのだ
なんのために 生きているのだ
今度こそ ぼくらは言う
困まることを 困まるとはっきり言う
葉書だ 七円だ ぼくらの代りは 一銭五厘のハガキで来るのだそうだ
よろしい 一銭五厘が今は七円だ
七円のハガキに 困まることをはっきり書いて出す 何通でも じぶんの言葉ではっきり書く
お仕着せの言葉を 口うつしにくり返して ゾロゾロ歩くのは もうけっこう
ぼくらは 下手でも まずい字でも じぶんの言葉で 困まります やめて下さい とはっきり書く
七円のハガキに 何通でも書く ぽくらは ぼくらの旗を立てる ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは赤ではない 黒ではない もちろん白ではない 黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ ぼろ布端布(はぎれ)をつなぎ合せた 暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに その旗を 物干し台や屋根に立てる
見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ ぼくら こんどは後(あと)へひかない
(8号・第2世紀 昭和45年10月)
はなもり やすじ 編集者 1911 – 1978.1.14 兵庫県神戸市に生まれる。東大在学中、扇谷正造、杉浦明平らと帝大新聞の編集に携わり、戦後昭和二十三年(1948)「暮しの手帖」を創刊、雑誌の全面に花森の手と息吹がかかっていた。 掲載作は、昭和四十五年(1970)十月「暮しの手帖」第2世紀8号に掲げた胸にしみるマニフェスト
by saitoru1960 | 2016-07-12 20:45 | 心にのこる

心動かされたことを忘れぬように


by saitoru1960