光かきとり

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なんだか光の写真が多いのだけれどわかばは5年生で、被写体としてはまだまだへんちくりんな行動をとる光の方が面白い。
椎名誠の息子・岳もやはり2番目で長男。
同じような面白さを父は感じて、「岳物語」を書いたんだろうな。
# by saitoru1960 | 2005-03-15 05:41 | 家族

香港にて

2月に初めて香港に行きました。
自分の中で、廟街はもっと刺激的なものとしてイメージを膨らましていたのですが、パキスタンのバーザールの方がもっともっと興奮しました。
沢木耕太郎が旅の最初で体験した「香港の廟街」と、私がかつてインドよりも早く訪れたパキスタンラホールで感じた雑多さは、きっと同じようなインパクトを形成したのではないかと思います。
その後もそれぞれの旅は続いているのだけれど、やはり最初に大きくインパクトを与えたものに対して思い入れが大きくなるのだと思っています。
私がその後インドへ行った時も、「パキスタンと似ているな」という印象でしたから。
ただ、実際香港に行ってみなければそんな風に割り切ることはきっとできなかったはずで、そういう意味で今回の香港旅は面白かったです。
# by saitoru1960 | 2005-03-14 05:37 |

息子・光

牛乳パックで作ったワニで遊ぶ。(3月12日)
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# by saitoru1960 | 2005-03-13 05:35 | 家族

「燃えよドラゴン」と「深夜特急」の旅

香港は中学時代からの憧れの地であった。 映画「燃えよドラゴン」の中で、それまで見たこともないような動きと迫力で戦い続けるブルースリーは、多感な男子中学生にとっての強烈な憧れの人物となった。

映画の冒頭、弟子のラオに稽古をつけるシーンでは、型や、感情をあらわにすることに意味のないことを教えるため、考え込むラオにこう諭す。「Don’t think . Feel !.」(考えるな、感じろ)リーのしゃべるその簡単な英語と哲学的ないいまわしが心にビンビン響き、今もこのフレーズは自分の中でかなりの存在感を示している。

ラオ少年に稽古をつける寺、湾内の船の上で暮らす水上生活者たちの合間をぬいながら漂い進むリーの乗るサンパンと呼ばれる小船、オープニングのサウンドトラックが流れている間バックに映る香港の街並。映画の中で初めて見た香港は、近くて遠い異国であった。

それから15年後。異国の地での生活を決心した頃、「深夜特急」(沢木耕太郎著)という1冊の本に出会った。

旅に憧れる若者たちのバイブルとまでいわれている著作で、デリーからロンドンまで乗り合いバスで行けるかどうか、という旅の展開に、ある時は自分自身を投影させながらのめりこむようにして先へ先へと読み進んでいった。

その「深夜特急」では出発地点インドのニューデリーに行き着く前に、香港へ渡るところから旅がスタートする。ここで15年の時間を経過して自分の中で2つの香港がつながり、再び憧憬の念が強まったのであった。

この2月。初めてその香港をおとずれた。

水上生活者の暮らしていた香港仔(アバディーン)には、数は減ったとはいえ今も幾隻もの船が日常の生活を乗せて浮かび、沢木耕太郎が泊まったと同じような雑居ビルには今尚インド人たちが逞しく商売をし、胡散臭さは十分漂っていた。

ネパール人が路上でみやげ物屋を出し、重慶マンションではアフリカの人たちの密度も高かった。公園ではインドネシア語のテープにあわせて体操をするチャイニーズのおばさんたちがいたりするし、パキスタンレストラン、インドレストラン、もちろん日本語で書かれた店の看板も多数目にすることができた。

古ぼけて煤けた建物の隣に近代的なビルが建ち、廟街と呼ばれるナイトマーケットのざわついた雑踏もどこか懐かしいものであった。

わたしは香港に何を求めていたのだろうと考えていた。

かれこれ30年も前に憧れた国。憧れの人から刺激された街。

自分の中で作り上げてきた香港像が現実と重なったのか、全くのミスマッチだったのか。正確に重なり合ったわけでもなく、全くのミスマッチでもなかった、というのが正直なところであった。30年前の、そして15年前の香港がそこに存在しない以上、きちんと重なり合うわけはなく、重なったある部分だけに少し安堵しながら、今の香港を楽しもうと街を歩き回った。
# by saitoru1960 | 2005-02-21 16:07 | アジア

大津波がモルディブを越えた

「コーチどうしたん?」と隣のイスラトからふと尋ねられた。 「あれはなんやろ?」バスの車窓に現れては流れ過ぎる、道端の見慣れない形のものに気を奪われていた私は、再び現れたそれを指差し逆にイスラトに聞き返した。

パキスタンの古都ラホール。首都イスラマバードで行われる南アジア大会出場のため、モルディブ陸上競技チームはサッカーモルディブ代表とともに事前の合宿を行っていた。  

ラホールの中心部にはありとあらゆる生命がひしめき合いながら混在していた。馬犬猫驢馬駱駝自転車自動車二輪車老人若者子供幼児乳児塵糞埃喧騒罵声・・。潔癖症には到底堪えられない混乱した状況下で、人々は元気に笑顔で、実にパワフルに商売をし、飯を食い、排泄をしていた。

外・内装ともにギンギンど派手に飾り立てられた我々を運んでいるバスは、、車内にヒンディー音楽をギュンギュン響き渡らせ、他のバスと勝負でもしているかの如くカーチェイスを繰り広げながら不必要に先を急いでいた。

ドライバーは狭い道が多いため追い越すときにはセンターラインを越えて走るのは当然の運転テクニックで、対向車とぶつかりそうになってもクラクションをけたたましく響かせながら、「逃げたら負け」の男の掟があるかのようにかつかつの所まで元の道には戻らず、おーーっ!!と叫びそうになることが幾度となくあった。ひっくり返り破損したバス、トラックをラホールで何台見た事か。

窓から眺めていると、道の脇に新しい盛り土が時々現れては後方へと流れていくことがしばしば起こってきて気になり始めていた。何かイスラム教国パキスタン特有の文化でも関係しているのかと考え始めたとき、イスラトに声をかけられたので聞いてみると、即座に、あれは人だよ、と教えてくれた。墓標もない、道端のただの土盛り。

死んだ人を掘った穴にただ埋めただけの埋葬。イスラム教徒は土葬すると知ってはいたけれど、あまりにも無造作な墓に、改めて死者に対する宗教観の違いを感じさせられたのであった。

マーレにある墓場の地面の高さは普通の土地よりも2mほど高くなっていた。島の面積が小さい上に超過密状態の人口密度のため、死んだ人を埋葬する場所さえままならないので、上へ上へと重ねて土葬を続けていくのである。墓石もなく、墓参りをする習慣もないイスラム教徒ならではの埋葬方法。初めてその話を選手たちから聞いたとき、わたしの下宿から目と鼻の先にあるその一画へ夜近づくことに恐怖を感じ、火の玉とか見たことないのか?と尋ねると、たまに青白いのが出るみたいだけど、と冗談か本当なのかわからない笑顔で答えてくれたのであった。

年末にインド洋の沿岸諸国を襲った津波により、23万人を超える死者が出た。スマトラ島からインド洋を越えてアフリカまで届いた津波は、スリランカで10mもの高さになり線路から電車を弾き飛ばしていた。温暖化で海面が上昇したら国がなくなる、と国連で大統領が力説している、平均海抜が2mに満たないモルディブが消えてしまうには十分すぎる高さである。覚悟を決めかけていたところに、「マーレ島3分の2浸水」の一報が入った。浸水の文字に安堵はしたが、通信が遮断されている小さな地方島のことが再び気になり始めた。全島で死者行方不明者あわせて108人。4000戸が倒壊した。

たった一度の地震で18万人近くのイスラム教徒が亡くなり、コーラン(イスラム教典)にのっとって、メッカの方角に頭を向け土葬されたことになる。
# by saitoru1960 | 2005-01-25 16:05 | モルディブ

クウェートの公衆便所で

いよいよ任期も折り返しを過ぎた頃、選手を引き連れ50日間の海外試合の旅に出たことがあった。海外から招待される国際大会は、基本的に飛行機代も宿泊代も主催者側が出してくれるため、「ただ」で外国に行ける絶好のチャンスである。

モルディブには陸上競技場がなく、選手権大会と銘打っても所詮サッカー場の芝生の上に白いペンキをスプレーで吹きつけて作った学校の運動会のようなものなので、世界で公認される記録は出しようがない。詰まるところ、海外での試合参加が唯一公認記録樹立のチャンスでもあるのだ。

南アジア大会(パキスタン・イスラマバード)、イスラミックオリンピック(クウェート)、アジア陸上選手権(インド・ニューデリー)と3つの大会が連続したため、出場メンバーは少しずつ入れ替わりながらも、私自身は一度もモルディブに帰ることなくひたすら旅の途中にあった。

クウェートでイスラム教を国の宗教にしている国々を集めて行われたイスラミックオリンピック大会でのこと。

開会式で電光掲示板に浮かぶ流れるような美しいアラビア文字を眺めながら、周りにアフリカの国の人々がかなり濃い密度で並んでいることは肌の色で実感できていた。イスラム教は砂漠でうまれ、仏教徒の3倍弱ほどの人々(約9億人)が信仰している世界で2番目に信者の多い宗教のため、大会自体のレベルはオリンピックでメダルを取るような記録もでたりするほどではあったけれど、私は何よりもイスラム教徒だけで行われている競技会というものに興味を覚えた。

主催者側は参加者に対して歓迎の催し物として小さな遊園地を貸切り、パーティーを開いてくれた。小さな島国のモルディブ人が物怖じして他の国の人たちと気軽に話すことができるのかな、と思っていたのだけれど、どうしてどうして、さまざまな国の選手たちとジュースを飲みながら(イスラム教ではお酒は禁止)会話を弾ませていた。

大きさ的には須磨の水族園くらいの小さな遊園地ではあったが、そんなものを見たこともないモルディブの選手たちは初めての遊園地に大いに盛り上がり、キャーキャー言いながらメリーゴーラウンドやぐるぐる回る椅子に乗ってはしゃいでいた。

さて、尿意をもよおしてきて公衆便所に行った時のことである。

モルディブの人達は基本的に小便を座ってしている。マーレでの練習の合間にも、「コーチ!」といって自分の小指を立て(これがおしっこの合図)横っちょの防波堤を越えて波打ち際まで行き、座りながら用を足していたりするのである。終わると海の水を手ですくいちょいちょいとおちんちんをきれいにしているのだ。

大便後もおしりを水で洗うし、1日5回のお祈りの時もきちんと、顔、手、足、口、耳までも水で洗ってきれいにしているので、基本的にイスラム教の人達はきれい好きな人達が多い。(と、私はモルディブ人を見る限り思っている。)

クウェートの公衆便所には当たり前ではあるけれど男性用小便器がついていた。選手たちの立小便姿をみるのも珍しいことなので横に並んで、

「やりにくくないか?」

などと話しながら一緒に小便をしていると、ふと便器ひとつひとつのしきりの上にしゃれたじょうろのようなものがあるのに気づいた。 きちんとどちらかのしきりの上にじょうろは乗っていて、なんなんやろ、と眺めていると、用をし終えた彼らはごく自然にそのじょうろを手に取り、まだズボンから出ている一物に水をかけているのである。

ためらもないその行動に、異国であり異文化のクウェートにあっても、まぎれもなく彼らは同じイスラム教徒なのだとしみじみ考えさえられた瞬間であった。
# by saitoru1960 | 2004-12-28 16:03 | アジア

マーレ島大運動会

年がら年中30度の気温で四季がなく、かつまた周囲がたった5kmしかない世界では、「いつもと違うこと」はそうたびたび起こることではない。着るものも一年中同じで、ごはんもかつおカレーかかつおの汁かけめしかの繰り返しで毎日毎日ゆっくり過ぎてゆく。

高校生は、朝起きて午前6時から始まる学校に行き、昼前に終わると家に帰って朝昼兼用の軽い食事をとる。学校は学年(グレード・級)によって朝から組か昼から組かに分かれているため、朝から組はそこから自由時間。部活があるわけでもなく、バイトがあるわけでもない。

娯楽といえば、ヒンディー(インド)映画をビデオで観たり、洋楽をラジカセで聞いたりするくらいで、何もない午後のひとときをそんなことで過ごし、ようやく5時から放送開始のテレビを見ながら、かつおのカレーを食べて寝ておしまいの毎日である。

修学旅行や遠足などの学校行事もなく、年に一回学校で進級テストが行われ、緊張した空気が島中に漂う時期だけが、このチビ島で唯一季節が感じられる時になっていた。

国立アミニヤ女子校は小学生から高校生までが通う女子校の名門。周囲5kmの島でなにが名門やねん!、と突っ込んではいけない。驚くなかれ、なんとこのチビ島でありながら人口5万人もが住むマーレには私立の学校が10校近く存在しているのである。

そのアミニヤの先生から、「運動会をしようと考えているのだけれど協力してくれないか」と話がきたのは、4年ぶりに開催したモルディブ陸上競技選手権大会が成功裡に終わった数日後であった。ソウルオリンピック後に開催された陸上選手権はかなりの盛り上がりを見せ、それならば、とアミニヤがこれまた数年ぶりに運動会の開催を決めたのである。

アミニヤは島を4つの地域に分け、それぞれにアミララニ、ダインカンバなどといった名前をつけて、学年を越えた一種の村的な縦の関係をも大切に育てていた。ゆえに、運動会ともなると島中が家族をも巻き込んでの4村対抗大運動会の様相を呈してくる。

母親達は娘のために赤、オレンジ、紫、青と決まっているチームカラーをシャツの袖と襟、そしてキュロットスカートに使った運動会用ユニフォームを丹精込めて縫い上げる。卒業して間もないOG達も仕事の合間に学校に出向いて後輩達の指導にあたり、練習の段階からこちらが予想する以上の盛り上がりを見せていった。

大会は学年別で種目数も多いため4日間開催で、その期間島中が運動会一色となる。校庭には砂場もないので走幅跳のために校外の公園の中に急ごしらえの砂場まで登場し、リレーや走高跳、はては砲丸投といった陸上競技種目が次々と盛りこまれていった。

レクリエーション種目では、スリーレッグレース(2人3脚)、キャタピラーレース(むかで競走)といった日本でもなじみのものから、ズタ袋に両足突っ込んでのピョンピョンレース、はては自転車おそ乗り競走(自転車に乗り、足をつかずにゴールラインに最後についたものが勝ち)といったものまで登場し、それぞれの種目にチャンピオンが生まれ、表彰台の一番高いところで少し恥ずかしげに誇らしそうな表情で金メダルを首にかけてもらっていた。

「ハレ」の日が少ない国だけに、時々やってくる「晴れ舞台」は特別な意味をもっている。

円盤投の表彰台で真ん中に立った少しふとっちょの女の子は、首にかけられたメダルを手にとり、目にうっすら涙をにじませながらはじけるような笑顔を見せていた。
# by saitoru1960 | 2004-10-08 16:02 | モルディブ

「ハイさんはなつやすみなにをしましたか」

ベトナムのハノイ外国語大学に、青年海外協力隊員として日本語を教えている栗林さんを訪ねたことがあった。

ベトナムは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)同様社会主義の国ではあるけれど、ドイモイ(刷新)という国策のもと対外開放化や市場経済の導入などを行い、現在東南アジアで最も活気溢れている国の一つである。

最近でこそ、旅の雑誌などに「東洋のプチパリ」などとちょっとコジャレた書かれ方で南のホーチミンシティーが紹介されたりしているけれど、北の古都ハノイでは旧市街地がラビリンス(迷宮)となり、古き良き時代にタイムスリップすることができる程、新旧が入り交じり実にエネルギッシュな印象を訪れた人に与えている国である。

「サムソンにみんなであそびにいきました。いくときはあさはやかったのでくるまでいき、かえりはふうけいをみたかったのででんしゃでかえりました。かいすいよくをしたり、みんなでしゃしんをとったりしました。」

作文の朗読を聞いていると、日本の大学生とはかなり違ったベトナム学生の休日を窺い知ることができ、少しずつイメージが膨らんでいった。

みなさん、どうぞ学生の隣に座ってあげて下さい、と栗林さんに促されたので、私はある男子学生の隣に座り、おはようございます、と声をかけた。すると、男子学生は、はい、おはようございます、とニコっと笑って返してくれた。授業中なので、私は自分のノートを取り出し、私の名前はさいとうです、と書くと、私の名前はハイです、としっかりした漢字ひらがなカタカナ交じりの文章を書いてくれた。

私はハイさんの授業態度を眺めながら、どんなことをノートに書いているのか、少し斜め目でちょっと盗み見をした。ハイさんはそんな私の態度に気づき、「どこかまちがっているところはないですか?」と小さな声で私に話すと、ノートをずらしてチェックして欲しそうなそぶりを見せた。見てみると、全て日本語で書かれたノートには日本の高校生が書けないような難しい漢字まできちんと正しく書かれてあり、ハイさんの人となりが分かるような実に誠実なノートであった。

むずかしいかんじまでかけるのですね、と私が小さな声で告げると、ハイさんは少しはにかんだような表情を見せ、そんなことないですよ、と謙遜して顔を赤らめた。

日本語の授業が終わり、短い休み時間の間にハイさんと話をしていると、ハイさん達学生の多くは遠く離れた土地からハノイまで出てきて寄宿舎生活を送りながら学んでいるのであった。授業は午前か午後だけしかなく、空いている時間は図書館で勉強したりしている。

寄宿舎の自分のスペースは部屋においてある2段ベッドの自分の寝る場所しかなく、そこにおいてある衣服などを入れたケースの上に教科書やノートを広げ、夜遅くまで勉強しているという話であった。学ぼうとする若者のパワーが満ち溢れているベトナム学生像で、バイトをし、小金を稼いで遊びほうけている日本の大学生とは根本的に何かが違っていた。

何かを自分のものにすることで充実感を得たり利益が生じたりする時、若者は全身全霊をこめてエネルギッシュに燃えることができるものである。幸運なことにベトナムという国には今現在、いくらでも燃えることのできる魅力的なものが山ほどあるのだと思う。

悲しいかな今の日本には、それを身近に探すことができず、若者しか持ちえないエネルギーは、白い煙をくすぶらせて不完全燃焼してしまっている気がしてならない。
# by saitoru1960 | 2004-07-08 16:00 | 協力隊

たまねぎとじゃがいも

周囲5kmのモルディブ・マ―レ島には5万人(‘90当時)もの人々が生活していた。六畳間に4人くらいは平気で寝ている世界的でもトップクラスの濃い人口密度で、子供の一人部屋なんてとんでもない暮らしぶりであった。

その島の中には「よろずや」が結構な数存在していて、人々の生活の基盤となっていた。小さな店の中に、石鹸、鉛筆、ジュースや米、薬などところ狭しと様々なものがあり、この国の人たちの生活を垣間見ることができた。

シンガポールから入ってくるビスケットやチョコレートには文明の香りが漂い、産み落とされてから船便で数日かけて届く卵は割ってみると緑色で腐敗臭が漂うこともままあり、まさにびっくり箱のような店であった。

赤道直下の南の国といえば、バナナやマンゴなどのトロピカルフルーツがいたる所で食べ放題、というイメージがあるが、モルディブはすべての土地がサンゴ礁の隆起から成り立ってできているため土地のやせ方が尋常ではなく、野菜栽培などの指導をおこなう協力隊員も派遣されていた。

自国で取れるものといえばカツオと椰子の実、わずかなバナナくらいしかなく、食品はほとんどが船による輸入である。そのため、日持ちのしない葉っぱものの野菜は店先で見ることはなく、キャベツなどもかなりの贅沢品扱いであった。

モルディブから飛行機で1時間の距離にあるスリランカにも同じように協力隊員が派遣されていた。近いこともあって、隊員同士が行き交うこともあり、いついつスリランカ隊員が遊びに来る、と連絡が入ると、10数名いるモルディブ隊員は自分の知人かどうかは関係なく、それぞれ“よっしゃ!”と小さくガッツポーズを作ったものであった。

新鮮な野菜に飢えているモルディブ隊員へのお土産として、菜っ葉、葉っぱ系の緑色したものを、飛行機に乗せることのできるギリギリの重量までダンボールにつめて持参すること、というのがスリランカ隊員がモルディブに来るときの暗黙の約束事になっているため、ワクワクしながらその採れたての野菜を待っていたのであった。

かのよろずやには、椰子の繊維であんだズタ袋が数個床に置いてあり、それぞれにたまねぎ、じゃがいも、にんにくなどが入っていた。いずれも日本ではまずスーパーに並ぶことがないような小さなくず野菜のような体で、袋の底に残ったくず野菜を集めているのかな、と思ったりもしたが、それはどこの店でも同じでモルディブのノーマルサイズとなっていた。

しかしながら、いくら小さくとも玉ねぎとジャガイモが手に入ることがわかり、これで日本のカレーができるな、と少しだけホッとし、日本人にとって玉ねぎとジャガイモというのは、結構必要不可欠な野菜になっているかもしれないな、と考えたりもした。

日本から届いたハウスジャワカレー6人前サイズのルーで、肉の代わりに缶詰のシーチキンを使い日本のカレーを作ると、直径5cmほどのたまねぎやジャガイモは、裕に10個以上は使わないと必要な量に満たなかった。しかしながら、よろずやで買ったチビたまねぎとチビジャガイモでも、日本を思い出させるには十分おつりのくる味であった。
# by saitoru1960 | 2004-06-13 15:59 | モルディブ

ナショナリズム(愛国心、国家意識、愛国主義・・)って

クラスの中に関西弁を話すインドの男子生徒(仮名:アブドラ・シン)がいたとしたら、かなりインド人に対するイメージは変わることになるに違いない。

そのシン君が、LHRの時間にインドカレーとナンなどを作って、「これ、うまいで」とご馳走してくれた日には、ぐぐっとインドとの距離は近づくこと間違いなしである。

体育でいっしょにバスケットボールをしたり、英語の授業で教えてもらったりしながら普通に友達になり、たまにむこうの家に遊びにいって、同じく関西弁を巧みに操るお父さん(仮名:マハトマ・シン)なんかと交流を深めながら、そういえばシンはインド人だったのだな、と逆に気づくような友達関係が知らぬ間にできてしまったとしてもおかしくはない。

しかしながら、そこのところにシン君が実はインド系マレーシア人だったということになると、インド人なのにインド人じゃない、というややこしい話になってくる。

顔はインド人なのになんでえ?、と聞かれてもシン君は簡単に説明できないだろうし、世界各国に散らばっている華僑(中国系○○人)の超巨大ネットワークに比べたら小さいけど、似たようなもんなんや、と答えられても今度はこっちがわからなくなり、はたしてシン君が作ってご馳走してくれたカレーはインド料理なんだろうか、マレーシア料理なのだろうか、と考え込んでしまう羽目になってしまう。

マレーシアという国は、マレー系65%、中国系26%、インド系7%の民族が混ざり合い、イスラム教、仏教、ヒンドウー教等が混在する複合多民族国家である。

単一民族しか住んでいない日本と違い、自分の隣に座っている人がターバンを巻いていようが、犬の肉を食べていようが、いちいち変な目で見ることはない。同じマレーシア人でも自分とは違う文化・習慣を持っている人なのだ、ときちんとお互い認識して共存している。

マレー系の人種だけでマレーシアの国が成り立っていれば単純明解なのかもしれないけれど、肌の色、顔の形、着ているもの、食べ物、宗教、などなど、自分とちょっと違うからと差別してしまう日本人のような意識では、国として成り立ちようがなくなってしまう。それがマレーシアという国なのだ。

マレー半島南端にシンガポールという淡路島とほぼ同じくらいの面積しかない国がある。この国はマレーシアから分離独立したような過去を持つため、人種も中国系が多くなるけれどマレーシアと同じように混ざり合っている。マレー系、中国系、インド系シンガポーリアンという呼び方になり、これまた変な話になってくる。

現在は東南アジアで最も裕福な国のひとつになるまで発展していて、英語教育に重点をおいているため街中で聞こえてくる言葉はアジアなまりの強い英語である。

そのシンガポールへモルディブの選手を引き連れ、アジアジュニア陸上競技選手権に出場した時のこと。

国際大会において、日本でいうところの「位置について。用意。ドン」に当てはまる言葉は、通常その大会が開かれる国の言葉が使われる。

大会前日、代表団ミーティングで確認された言葉は、「ク、ガリサン(位置について)。スディアー(用意)。ドン」

説明を聞くと、なんとマレーシア語であった。母国へのこだわりははたして何から生まれてくるのか真剣に考え込んでしまった瞬間であった。
# by saitoru1960 | 2004-04-24 15:58 | アジア

マーレ島ドッキリ大作戦

「○月○日、モルディブに行きます!何か欲しい物があれば教えてくださあい!」と教え子畑本から躍るような文字で書かれたハガキが突然届いたのは、日本からモルディブまでの郵便事情を知ってか知らずか、その到着2日前であった。

当時マーレ島で活動する協力隊員は17名。うち、選りすぐりの精鋭8名によって、日本とモルディブの距離感をイメージとして持ち得ないこの教え子に対して「マーレ島・夜のドッキリ大作戦」のミッションチームが、「はめたろ!」の合言葉のもと直ちに結成された。

マーレ島沖1kmに浮かぶ空港の島フルレに飛行機が到着するのは夜の11時47分。畑本は団体ツアーではなく、格安航空券のみを購入し、あとはこっちでわたし任せという、なかなか初海外旅行としては若さあふれる旅を選択していた。

手紙のあて先は協力隊事務所の私書箱あてになっているため、わたしが島のどこに住んでいるのか全く知らない畑本は、つまるところわたしが空港へ迎えに行かなければ即刻路頭に迷うことになってしまう。Act.1は「真夜中の空港・最終便後の孤独」がテーマとなった。

到着した初海外旅行畑本は、未知なる場所での不安な気持ちをかかえながらもとりあえず入国審査の列に並び、パスポートにハンコを押してもらって自由の身となると、重大目標の「サイトウ先生を捜す」にとりかかった。

一方、「サイトウの登場は最後の最後」を最大のポイントとして行動しているわれらミッションチームは、この場では全く姿を見せず、ひとりぼっちにしてビビらせること、を重大任務としていた。

到着してキラキラ輝いていた畑本の瞳は徐々に光を失い、周りにいた観光客達が出迎えの人達とそれぞれのリゾート島へ向かうボートに消えていくにしたがい、不安→困惑→迷走→絶望、と変化していった。

この間約20分。ほぼAct.1の目的を達成したと判断したミッションチームはシナリオどおり、Act.2にとりかかった。

「ハロウ!」、「ホワット ハプン?(どしたん?)」、「メイ アイ ヘルプ ユー?(なんかてーかしましょか?)」、船着場から近づいた3人の隊員が謎のアジア人と化し、畑本にコンタクトをとった。真夜中の断崖絶壁独りぼっち状態のところに、英語ではありながらも声をかけてもらったため、畑本は少しだけ肩を下げ、ここではじめて荷物を床に置いた。

木陰から遠巻きにうかがっていたわたしには、何語で何をしゃべっているのか分からなかったが、畑本はザックからハガキを取り出し、謎のアジア人達に見せて何か訴えていた。そこへ残りの謎のアジア人4人がディベヒ語、英語だけの会話でワイワイ混ざりながら畑本を取り囲み、その固まりのまま、マーレ島行きの船に、マッサラネティ、マッサラネティー(大丈夫だ、大丈夫だ)、と乗り込ませた。

マーレ島まで10分。サイトウが船の艫(とも)で船頭のおっちゃんの横にニヤニヤしながら隠れているとは、畑本はついぞ気づかなかった。

マーレにむかう船(ドーニ)には観光客の姿はほとんどなく、空港で働いて帰路につく人たちが謎のアジア人からディベヒ語でドッキリ大作戦実行中の説明を聞き、不気味なニヤニヤ笑いで畑本のことを眺めていた。

ポツンポツンと立つ街灯はわずかな光量しかなく、薄暗く静寂の船着き場に着くと客たちはそれぞれの家路についた。謎のアジア人達も「ここがマーレだ」と言い残し、それぞれ勝手バラバラな方向に消えていった。Act.3「うしみつどきの恐怖」ハジマリである。

畑本は動きようがなかった。手元にあるのはわたしから以前届いた協力隊事務所の私書箱が書かれたハガキだけである。畑本は誰もいない周囲を見回し、意を決したように薄暗い海沿いの道を歩き始めた。

少し歩くと前方にタクシーが一台停まっている。畑本はコンコンと窓を叩くと、下がった窓の中にハガキを突っ込み何かしゃべっている。運ちゃんはきいたことがわかっているのかどうなのか、ハガキを返し窓を閉めた。畑本はなす術もなくザックを置き、道に腰をおろし首をうな垂れた。万事休すである。

ミッションチームは笑いをかみ殺してのウヒョヒョ状態で路地の陰からAct.4へのGOサインを出した。謎のアジア人Aの登場である。路地から夜の散歩でもしているかのようにのんびり歩くいていくと、畑本の前を一度通りすぎ10mも行ったところで振り返り戻り、「キヒネビ?(どしたん)」と畑本の肩を叩いた。

一瞬ビクッとした畑本は疲れきった表情で少しだけ話すとハガキを渡した。Aがわからんなあ、というような顔で考えているところに、たまたま通りかかった風のBが、「キヒネビ?」と混ざってきて、それなら俺知ってるで、というようなやりとりを交わす。

Aは畑本に、「オーケーだ。こいつが知っている!」とジェスチャーで示すと、畑本の表情が瞬間的に曇天からサンシャインに変わり、Bの手を強く握りしめ、Aに何度も何度も頭を下げた。

直線で5分ほどの道のりを、あえて細い道ばかり選んでグルグル引き回した後、協力隊員の集会所(ドミトリー)に到着した。Bは鍵のかかっていない入口の扉を開けると、誰もいない部屋に勝手に入り込み電気をつけ、畑本を手招きして中に入れた。

なされるがままの畑本は疑いもせず素直に部屋に入り、「イシンデ(すわって)」とソファを指差されると素直に腰をかけた。すると、BはAとディベヒ語で二言三言交わし、「じゃあ」というような手を畑本にむかって挙げると家の外に出ていった。

いよいよラストActのはじまりである。5分後、Cがドミトリーに突入。安堵の畑本にむかってディベヒ語で声高に怒り出す。即刻家を飛び出すと、外で待っていたDとともに再突入。2人して目を吊り上げ、ディベヒ語でがなりたて、畑本を指差しながら叫び続ける。

そこのところへ、E、F、Gの3人が強行突破の波状攻撃でダメおしにかかる。畑本は完璧にパニックであった。まわりを謎の男達に囲まれ、訳の分からない言葉でこれでもかこれでもかと攻撃され続けられる。

「アイアム、コウベこうこう、・・、コウベハイスクール・・、マイティーチャー・・」と畑本はハガキを男達に向け、しどろもどろの英語を泣きそうな声で発していた。小便をちびるかもしれない。終演である。

「エーイ(おーい)、キークラニー?(なにしてるん)」とサイトウが部屋に入っていく。畑本と視線があったがすぐに視線は外され、畑本は男達に向ってなにかしゃべっている。

ゲッ、わかってない!?、「はたもと!おれやおれ!」

「えっ!?、……せんせえーーーー!!!!!」
# by saitoru1960 | 2004-03-19 15:55 | モルディブ

アジア麺くらべ

アジアの国々を歩いているとバラエティーに富んだ麺を食べることができる。

小麦粉が原料の中華麺に始まり、そば粉やでん粉で作った韓国冷麺、米粉で作ったベトナムのフォーなど、原料一つとっても様々で、そこに麺の形状や調味料などの違いを挙げだすと、「アジア麺・行列のできる店!」なんていう本が一冊できること間違いなしの豊富さである。

そこのところに、日本のオリジナルと考えられるインスタントラーメンという「文化」が、広くアジア全域にひろがり、アジア麺事情をより複雑にさせている。

モルディブではパーティーをする時に、ちょっと贅沢な食べ物として「ヌードルス」が登場した。袋に入っているインスタントラーメンをバキバキに割って大きなたらい(!)に放り込み、そこに麺がちょうどほぐれるくらいのお湯と袋に入っていた粉スープ、かつおのフレークや玉ねぎの炒めたもの、ケチャップなどを適当に投入し、グチャグチャに混ぜ込んで完成。

最初見たとき、何じゃこのめちゃめちゃな作り方は!?、と驚いたのだが、一口食べると、かつおカレー一色のモルディブ食事情の中では、やったね!と、ちょっと小躍りするくらいインパクトある簡単ウマウマ料理なのであった。

さて、韓国に初上陸し港町プサン(釜山)にて出会った生麺の話である。

春まだ盛りでない3月、上陸し最初に食べたのはおきまりの焼肉アンド冷麺であった。焼肉後の冷麺はなるほどモチモチした噛みごたえのある食感で、さすがだったのだが如何せん冷たすぎた。焼肉を食べた後なのでなんとかもちこたえていはいたけれど、店の外に出てウインドブレーカーをはおりながら、あーさむ、とおもわず背中を丸めてしまったほどである。

焼肉屋を出て、国際市場あたりの偽物ショップなんかを冷やかし歩いているとき、道の真ん中に、ビールケース数個の上に板を乗せ、風呂用のプラスティック椅子を置いただけの屋台と呼ぶには少々貧弱すぎる麺屋を発見した。

鍋からは湯気がモワモワ立ちあがり、あたたかい汁の匂いも鼻腔をくすぐって、冷麺で冷えた体には反射的に唾が出てくるシチュエーションであった。

とりあえず、籠に入っている細いきしめん風の麺を指差し、「オルマエヨ(いくら?)」とガイドブックのハングル会話講座からことばをひろって、座っている小太りのおばさんに告げた。

「○#△*・・」と返ってきたが、全く数字が分からなかったので紙に書いてもらった。すると百円ちょっとの値段だったので、うなづいて「ちょーだい!」と日本語で答えると、ニコッとして、煮立っているお湯の中にその麺を放り投げてくれた。

具はつみれやもやし、きざみねぎといったどこにでもあるものだったけれど、澄んだ色のだし汁はしじみからとったもので、細いきしめん風麺にほのぼのと実によくあった。

麺を食べきり汁を全て飲んだ後で、おばさんの顔を見て、だし汁の入った鍋を指差し、からになった丼の上に指を動かしながら、「もうちょっと汁くれない?」というような顔をするとふとっちょかあさんは、再びニッコリして、おたまで汁だけ丼に注いでくれた。

心から温まる、超私的お勧め麺であった。
# by saitoru1960 | 2004-01-10 15:53

ベトナム戦争とアメリカ

私はベトナム戦争を知らない。

1960年代初頭から1975年4月30日にわたって繰り広げられたベトナム戦争に大人達は大いに騒いでいたけれど、60年に生まれ、終戦当時中学3年のわたしにとって、戦争終了後のバタバタ騒ぎも何ら関係のないものであった。

『北ベトナムと南ベトナムの武力衝突。それは北ベトナムについたソ連、中国と南ベトナムについたアメリカとの政治戦略的な戦争ともいえた。

3代にわたる大統領、1500億ドルの巨費、年間54万人の兵士派遣。それほどまでにアメリカの威信がかかった戦争にアメリカは負け、ベトナムから撤退した。

アメリカ軍の犠牲者は5万8千人。ベトナム人に至っては200万もの人が犠牲になったといわれている。

そして、大量に散布された枯葉剤の暗い影は、今なお両国の人々を苦しめてもいるのだ。

この戦争の大きな特徴の一つに、戦争の前線がなかったことがあげられる。軍隊同士が向かい合う場がなかったのである。

北ベトナム側は南ベトナム領土内でゲリラ戦を展開。敵を待ち伏せし、短時間の攻撃を仕掛けた後はさっと引き上げるという戦略で、軍隊同士の正面きった戦いはなく、地の利を活かした小競り合い的な戦闘が多かった。

アメリカに真っ向勝負をかけ戦っても、勝ち目のない事を北ベトナム側は認識していたのだ。

いつどこからともなく仕掛けられてくる戦いに、前線のアメリカ兵は恐れおののき、しまいには戦力を喪失し、軍隊の指揮の低下を招いたのである。日本は、派兵こそしなかったけれど、沖縄、厚木などの基地がアメリカ軍の後方支援の重要な役割を果たすなど、アメリカ軍の強い味方として存在していたのであった。』

ベトナム戦争を調べてみると、このようにまとめることができた。

ベトナムより遠い中東イラク。自分の脚で周辺の国を歩き、そこで暮らす人々の生活にも具体的なイメージを持つ事ができる今、距離は遠くなっても、以前のようにどこかの国の誰かのことではなくなっている。

終戦からまだ30年も経たず、『ゲリラ』を『テロ』とよみかえ、イラクで自爆テロが頻発している現状に想いをはせると、アメリカは再び同じ道を歩いているような気がしてならない。
# by saitoru1960 | 2003-11-22 15:52 | アジア

マレーシア人ルビさんと過ごした10日間

私がかつて2年間生活したモルディブは100%イスラム教徒の国であった。

同じように、妻が洋裁を教えながら2年間暮らしていたマレーシアもイスラム教徒が多数派の国で、そこで生活していくうちに、当初強烈に感じていたモスリム(イスラム教徒)に対する、
「なんでだろう」感はかなり薄れていった。

仏教を普段意識していないえせ仏教徒(わたしのこと)は、逆にモスリムに質問されることで、自分にとって「宗教とは何か」を真面目に考えさせられることが多かった。

マレーシア半島の南端にあるジョホール州。ルビさんは偶然にも妻が2年間生活していた村のすぐそばで小学校の先生をしている人であった。

教科はイスラム教。小学校のカリキュラムにイスラム教があるというだけで、「?」マークがつくに違いない。

でも、宗教を人生のど真ん中に置いて、心のよりどころとしている人々にとっての「宗教」は、まさに教育の原点にもなるほどの重さがある。

八百万(やおよろず)の神が住む国に暮らし、表面だけの宗教感しか持ち得ない大多数の日本人にとって、「宗教」が自分自身の柱として存在することを理解するのにはかなりの時間と労力が必要となる。

ルビさんはマレーシアから10個近くのインスタントラーメンとカップラーメンを持ってきていた。イスラム教徒にとって豚や犬は不浄の生き物となる。

豚肉はもちろん口にせず、他の動物でもイスラムの教えにそった形で殺していなければ食べてはいけない。

理由は、イスラム経典(コーラン)にそう書いてあるから。

たとえスープやエキスであったとしても同じ事で、「味の素」は東南アジアでも広く使われている日本の調味料であるけれど、それに豚肉からとったエキスが入っているということで大騒ぎになった事件が数年前にあったほどである。

そのマレーシアから持ってきたラーメンには「ハラル」マークがついている。イスラムの教えに従い処理されたものだけしか使っていません、モスリムの人は食べても大丈夫です、というのが「ハラル」マークである。

イスラム教徒が暮らす国では「ハラル」かどうか、が食べる上で最も重要なポイントになり、日本に行き、もし食べるものがなければインスタントラーメンで乗り切る覚悟でわざわざ持ってきているのであった。

あまり知られていないけれど神戸には1935年に作られた日本最初のイスラム寺院(モスク)が、異人館街の西端にあり、神戸近郊で生活しているイスラム教徒が金曜礼拝の日には100人ほど集まってくる。

モスリムは1日5回、決まった時間帯にメッカ(サウジアラビア)の方角(日本では西)を向いてお祈りをする。

祈りの場所はモスクでなくても構わないが、イスラム教の安息日にあたる金曜日だけはモスクでのお祈りを常としている。

日本に来てからは我が家の部屋でしかしていなかったルビさんも、「神戸にはモスクがあるよ」と連れて行くと、そこに来ていたエジプト人、マレーシア人のモスリムと共に、久し振りにきちんとお祈りをしていた。

世界中どこにいても、モスリムはモスリムとしての時間の中で生活しているのであった。

「なぜ、スカーフをずっと巻いているの?」、

「なぜ、豚肉は食べないの?」、

「熱帯雨林はどうしてあんなに大きいの?」、

高校で受けたのと同じような質問を、娘が通う小学校へ行った時にも、ルビさんは繰り返し受けたようである。

「わからない、モスリムだから、って答えても良かったんだけどね。反対に、じゃあ、なんで日本の木はこんなに小さくて低いの?、と尋ねたら、どういう答えを日本人は返せるんだろうね」

と、ルビさんは国際理解を進める上で、忘れがちにされる部分を暗示するような話をしてくれた。

自分にとってのあたり前が、他の人にはあたり前には映らないってことは同じ日本人同士でも時々あることだし、国籍、文化、習慣、宗教などが違えば、「えっ?なんで?」というようなことはいくらでも出てくる。

でも、「えっ?なんで?」で終わらせず、「へーそうなんや」というところでいけば、そこからつきあい始める事はできるようになる。

価値観の違う人間が仲良くつきあっていくためには、お互いの違いを理解しあうよりも、お互いの違いを知ることの方が大切で、相手の価値観を知識として知っているだけでも、相手に対する思いやりや気配りの心を持つことはできるし、同じ人間として同等につきあうことができるようになる。

「生まれてくると、お宮参りや七五三で神社に行き神主さんにお払いをしてもらう。大晦日にはお寺の除夜の鐘をきき、日付が変わり新年になると神社に行く。結婚式はキリスト教の教会でして、死んだ時はまたお寺で墓に入る。日本人にとって宗教ってなんなの?」

マレーシアに行き、むこうでこのような質問を幾度ども受けたら、どう答えることができるだろう
# by saitoru1960 | 2003-10-20 15:50 | アジア

今感じている、イラクと日本のこと

田中宇が「イラク(光文社新書)(2003・3・20)」で書いている文章がなんだか、しみじみと響いてきて、今回は少々長くなるけれど、抜粋してみた。

戦争が始まる前の2003年1月にイラクに入って書かれた著書なのだけれど、現代の日本人に対する意見の部分に共感を覚えた。

以下抜粋***************

終章:「社会の根っこ」か「個人の自由」か

イラクの濃密な社会を見て、「戦前の日本の社会もこんな風だったかもしれない」と思った。

今のイラクと同様、戦前の日本にも「相互監視」「秘密警察(特高)」「軍国主義」など、社会の闇の部分があった反面、今よりも濃密な人間関係があったと思われる。

今の日本に比べ、社会の「根っこ」が濃密だったということだ。

この「社会の根っこ」は、人々にまとわりついて「個人の自由」を抑圧するし、根っこが腐ると「賄賂」など政治的な腐敗も増える。

イラクでは「心づけ」(バクシーシ)つまり少額の賄賂が常態化しているらしく、私たちもあちこちで「心づけ」や「寄付」を要請された。

あるイラク人は「ヨルダンは賄賂がないから良い」としみじみと言っていた。ヨルダンはアメリカナイズが進み、イラクより「根っこ」が小さいから、賄賂の習慣も少ないのだろう。

だが、イラクから日本に戻ってみると、社会に「根っこ」が少ないことは、良いことばかりではないと思えてきた。

「自由」なのは良いのだが、半面「人生で何をしたら良いかが分からない」という人がものすごく多い。「自分探し」がうまくいかないことが、若者の深刻な問題のように思える。

経済成長が止まって面白い仕事が減った結果、中年のサラリーマンでも、会社が面白くない、会社が自分を必要としていない、と感じてる人が多い。

日本は、国家としてもどっちの方向にいったらいいか決められない「根無し草」的な状態だ。

9・11以降のアメリカが自壊的な混乱期に入っていることに対し、西欧諸国はアメリカと距離を置いた新しい関係を模索し始めているが、日本では国民的感情としては「反米」が高まっているものの、国家としてはアメリカに盲従する以外、方策が思いつかない状態だ。

国民的にも「アメリカには反対」だとしたら何に「賛成」なのか、日本がどっちに行くべきか考えあぐねている。

韓国では反米がナショナリズムの高揚につながっているが、日本では「ナショナリズム」と聞いただけで「悪いもの」と皆考え、そこで思考が止まってしまっている。

私には、こういう日本の現状は、60年前にアメリカとの戦争に負けて「根っこ」が刈り取られたことと関係していると思われる。

「軍国主義」とか「国家神道」が良い、と言っているのではない。アメリカは1945年に日本を降伏させ、その後日本を改造していく中で、日本が二度とアメリカの脅威にならぬよう「根っこ」を切り取ってしまったのではないか、日本人はそのことを考えるべきではないか、日本人は「根っこ探し」が必要だ、ということである。

アメリカのくびき

これまでは、アメリカが「正常」な国だったから、日本は対米従属でもかまわなかった。だが、9・11以降のアメリカは、もはや理想から遠く、正常でもない。

それは2002年初め以降のイラク侵攻をめぐるアメリカ政府の動きに象徴されている。

日本が無前提でアメリカに従ってきたこれまでの状態を見直すことが、国益の観点からも、善悪の観点からも必要になっている。

ところが日本の人々や政府は、今後の方向性を考える際の「根っこ」を敗戦とともに刈り取られてしまっているので、アメリカ離れを実現することができない。少なくとも1945年に立ち返って自分たちのこと、世界のことを考え直さないと、日本人はこれからの方向性を決められないだろう。

こうした私の意見に対し「戦後の日本人は国際主義、国連主義に立っている。

それが日本の根っこだ」という人もいるだろう。だが日本人がいうところの国際主義は、アメリカを中心とした国際主義であり、アメリカが正常でなくなってしまった以上、戦後の日本の知識人たちが希求した国際主義もまた、見直しを迫られている。

このところイラク攻撃をめぐり、フランスやドイツ、中国、ロシアなど「国際社会」の面々が国連などの場でアメリカに対抗している。

これは新しい国際主義であるが、独仏中ロなどは、いずれも自分たちで向かおうとする方向が、日本よりずっと明確だ。日本人が彼らと同じ地平に立つには、アメリカ抜きの国家的意志、戦前にさかのぼった自分たちの根っこについて考えていくことが、まず必要だ。

もし日本が国を挙げてそれをやり始めたら、アメリカのマスコミはいっせいに「日本は軍国主義を復活させ出した」と非難始めるだろうが、それはアメリカの対日利権を守るためであり、真に受けるべきではない。

また、中国や韓国も反日的な論調を強めるだろうから、日本人が「根っこ」を取り戻すには、まず中国や韓国などと過去のわだかまりを乗り越える良い関係を作る必要がある。

その上で日本が踏み出せば、アメリカが攻撃してきても、アジアの側は日本を擁護してくれるはずだ。その手順を間違えると、アジアとアメリカの両方からたたかれて終わることになる。

最近の日本の右派論調は「反中国・反北朝鮮」だが、これは「民族主義」などではなく、逆に気づかぬうちに、または故意にアメリカの傀儡になってしまっているとすら思える。

イラクは独裁国家で密告社会、おまけにアメリカからは経済制裁され、侵攻されて国を破壊されそうになっている。だが、社会的な根っこ、アラブの伝統社会というアイデンティティーは、たくましく繁茂している。

日本は経済的には豊かだが、精神的に根無し草だ。そして両国は、抱えている問題の根源のひとつが「アメリカ」だという点で一致している。

日本もイラクも、今後の可能性がないわけではない。イラクには潤沢な石油がある。

日本は「大陸の端にある島国」という地政学的な利点があり、ほぼ単一民族で国の安定を維持しやすい。精神的に不安定になっても、政治的には安定を維持できる。

両国とも、国民性は勤勉だ。イラクの場合は湾岸戦争以来、日本では第二次大戦以来の「アメリカのくびき」からどう脱するかということが、今後の両国の国民にとって重要だろう。

イラクだけでなく、いろいろな海外の国々へ行き、そこの社会について見聞きして考えるたびに、私の思考が最終的には行き着くテーマは、日本と日本人に関すること「日本とは何か」ということである。私の国際情勢の分析は、他者を知ることで、回り回って自分を知る、ということになっている。
# by saitoru1960 | 2003-07-12 15:48 | ひとりごと

心動かされたことを忘れぬように


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