たまねぎとじゃがいも

周囲5kmのモルディブ・マ―レ島には5万人(‘90当時)もの人々が生活していた。六畳間に4人くらいは平気で寝ている世界的でもトップクラスの濃い人口密度で、子供の一人部屋なんてとんでもない暮らしぶりであった。

その島の中には「よろずや」が結構な数存在していて、人々の生活の基盤となっていた。小さな店の中に、石鹸、鉛筆、ジュースや米、薬などところ狭しと様々なものがあり、この国の人たちの生活を垣間見ることができた。

シンガポールから入ってくるビスケットやチョコレートには文明の香りが漂い、産み落とされてから船便で数日かけて届く卵は割ってみると緑色で腐敗臭が漂うこともままあり、まさにびっくり箱のような店であった。

赤道直下の南の国といえば、バナナやマンゴなどのトロピカルフルーツがいたる所で食べ放題、というイメージがあるが、モルディブはすべての土地がサンゴ礁の隆起から成り立ってできているため土地のやせ方が尋常ではなく、野菜栽培などの指導をおこなう協力隊員も派遣されていた。

自国で取れるものといえばカツオと椰子の実、わずかなバナナくらいしかなく、食品はほとんどが船による輸入である。そのため、日持ちのしない葉っぱものの野菜は店先で見ることはなく、キャベツなどもかなりの贅沢品扱いであった。

モルディブから飛行機で1時間の距離にあるスリランカにも同じように協力隊員が派遣されていた。近いこともあって、隊員同士が行き交うこともあり、いついつスリランカ隊員が遊びに来る、と連絡が入ると、10数名いるモルディブ隊員は自分の知人かどうかは関係なく、それぞれ“よっしゃ!”と小さくガッツポーズを作ったものであった。

新鮮な野菜に飢えているモルディブ隊員へのお土産として、菜っ葉、葉っぱ系の緑色したものを、飛行機に乗せることのできるギリギリの重量までダンボールにつめて持参すること、というのがスリランカ隊員がモルディブに来るときの暗黙の約束事になっているため、ワクワクしながらその採れたての野菜を待っていたのであった。

かのよろずやには、椰子の繊維であんだズタ袋が数個床に置いてあり、それぞれにたまねぎ、じゃがいも、にんにくなどが入っていた。いずれも日本ではまずスーパーに並ぶことがないような小さなくず野菜のような体で、袋の底に残ったくず野菜を集めているのかな、と思ったりもしたが、それはどこの店でも同じでモルディブのノーマルサイズとなっていた。

しかしながら、いくら小さくとも玉ねぎとジャガイモが手に入ることがわかり、これで日本のカレーができるな、と少しだけホッとし、日本人にとって玉ねぎとジャガイモというのは、結構必要不可欠な野菜になっているかもしれないな、と考えたりもした。

日本から届いたハウスジャワカレー6人前サイズのルーで、肉の代わりに缶詰のシーチキンを使い日本のカレーを作ると、直径5cmほどのたまねぎやジャガイモは、裕に10個以上は使わないと必要な量に満たなかった。しかしながら、よろずやで買ったチビたまねぎとチビジャガイモでも、日本を思い出させるには十分おつりのくる味であった。
# by saitoru1960 | 2004-06-13 15:59 | モルディブ

ナショナリズム(愛国心、国家意識、愛国主義・・)って

クラスの中に関西弁を話すインドの男子生徒(仮名:アブドラ・シン)がいたとしたら、かなりインド人に対するイメージは変わることになるに違いない。

そのシン君が、LHRの時間にインドカレーとナンなどを作って、「これ、うまいで」とご馳走してくれた日には、ぐぐっとインドとの距離は近づくこと間違いなしである。

体育でいっしょにバスケットボールをしたり、英語の授業で教えてもらったりしながら普通に友達になり、たまにむこうの家に遊びにいって、同じく関西弁を巧みに操るお父さん(仮名:マハトマ・シン)なんかと交流を深めながら、そういえばシンはインド人だったのだな、と逆に気づくような友達関係が知らぬ間にできてしまったとしてもおかしくはない。

しかしながら、そこのところにシン君が実はインド系マレーシア人だったということになると、インド人なのにインド人じゃない、というややこしい話になってくる。

顔はインド人なのになんでえ?、と聞かれてもシン君は簡単に説明できないだろうし、世界各国に散らばっている華僑(中国系○○人)の超巨大ネットワークに比べたら小さいけど、似たようなもんなんや、と答えられても今度はこっちがわからなくなり、はたしてシン君が作ってご馳走してくれたカレーはインド料理なんだろうか、マレーシア料理なのだろうか、と考え込んでしまう羽目になってしまう。

マレーシアという国は、マレー系65%、中国系26%、インド系7%の民族が混ざり合い、イスラム教、仏教、ヒンドウー教等が混在する複合多民族国家である。

単一民族しか住んでいない日本と違い、自分の隣に座っている人がターバンを巻いていようが、犬の肉を食べていようが、いちいち変な目で見ることはない。同じマレーシア人でも自分とは違う文化・習慣を持っている人なのだ、ときちんとお互い認識して共存している。

マレー系の人種だけでマレーシアの国が成り立っていれば単純明解なのかもしれないけれど、肌の色、顔の形、着ているもの、食べ物、宗教、などなど、自分とちょっと違うからと差別してしまう日本人のような意識では、国として成り立ちようがなくなってしまう。それがマレーシアという国なのだ。

マレー半島南端にシンガポールという淡路島とほぼ同じくらいの面積しかない国がある。この国はマレーシアから分離独立したような過去を持つため、人種も中国系が多くなるけれどマレーシアと同じように混ざり合っている。マレー系、中国系、インド系シンガポーリアンという呼び方になり、これまた変な話になってくる。

現在は東南アジアで最も裕福な国のひとつになるまで発展していて、英語教育に重点をおいているため街中で聞こえてくる言葉はアジアなまりの強い英語である。

そのシンガポールへモルディブの選手を引き連れ、アジアジュニア陸上競技選手権に出場した時のこと。

国際大会において、日本でいうところの「位置について。用意。ドン」に当てはまる言葉は、通常その大会が開かれる国の言葉が使われる。

大会前日、代表団ミーティングで確認された言葉は、「ク、ガリサン(位置について)。スディアー(用意)。ドン」

説明を聞くと、なんとマレーシア語であった。母国へのこだわりははたして何から生まれてくるのか真剣に考え込んでしまった瞬間であった。
# by saitoru1960 | 2004-04-24 15:58 | アジア

マーレ島ドッキリ大作戦

「○月○日、モルディブに行きます!何か欲しい物があれば教えてくださあい!」と教え子畑本から躍るような文字で書かれたハガキが突然届いたのは、日本からモルディブまでの郵便事情を知ってか知らずか、その到着2日前であった。

当時マーレ島で活動する協力隊員は17名。うち、選りすぐりの精鋭8名によって、日本とモルディブの距離感をイメージとして持ち得ないこの教え子に対して「マーレ島・夜のドッキリ大作戦」のミッションチームが、「はめたろ!」の合言葉のもと直ちに結成された。

マーレ島沖1kmに浮かぶ空港の島フルレに飛行機が到着するのは夜の11時47分。畑本は団体ツアーではなく、格安航空券のみを購入し、あとはこっちでわたし任せという、なかなか初海外旅行としては若さあふれる旅を選択していた。

手紙のあて先は協力隊事務所の私書箱あてになっているため、わたしが島のどこに住んでいるのか全く知らない畑本は、つまるところわたしが空港へ迎えに行かなければ即刻路頭に迷うことになってしまう。Act.1は「真夜中の空港・最終便後の孤独」がテーマとなった。

到着した初海外旅行畑本は、未知なる場所での不安な気持ちをかかえながらもとりあえず入国審査の列に並び、パスポートにハンコを押してもらって自由の身となると、重大目標の「サイトウ先生を捜す」にとりかかった。

一方、「サイトウの登場は最後の最後」を最大のポイントとして行動しているわれらミッションチームは、この場では全く姿を見せず、ひとりぼっちにしてビビらせること、を重大任務としていた。

到着してキラキラ輝いていた畑本の瞳は徐々に光を失い、周りにいた観光客達が出迎えの人達とそれぞれのリゾート島へ向かうボートに消えていくにしたがい、不安→困惑→迷走→絶望、と変化していった。

この間約20分。ほぼAct.1の目的を達成したと判断したミッションチームはシナリオどおり、Act.2にとりかかった。

「ハロウ!」、「ホワット ハプン?(どしたん?)」、「メイ アイ ヘルプ ユー?(なんかてーかしましょか?)」、船着場から近づいた3人の隊員が謎のアジア人と化し、畑本にコンタクトをとった。真夜中の断崖絶壁独りぼっち状態のところに、英語ではありながらも声をかけてもらったため、畑本は少しだけ肩を下げ、ここではじめて荷物を床に置いた。

木陰から遠巻きにうかがっていたわたしには、何語で何をしゃべっているのか分からなかったが、畑本はザックからハガキを取り出し、謎のアジア人達に見せて何か訴えていた。そこへ残りの謎のアジア人4人がディベヒ語、英語だけの会話でワイワイ混ざりながら畑本を取り囲み、その固まりのまま、マーレ島行きの船に、マッサラネティ、マッサラネティー(大丈夫だ、大丈夫だ)、と乗り込ませた。

マーレ島まで10分。サイトウが船の艫(とも)で船頭のおっちゃんの横にニヤニヤしながら隠れているとは、畑本はついぞ気づかなかった。

マーレにむかう船(ドーニ)には観光客の姿はほとんどなく、空港で働いて帰路につく人たちが謎のアジア人からディベヒ語でドッキリ大作戦実行中の説明を聞き、不気味なニヤニヤ笑いで畑本のことを眺めていた。

ポツンポツンと立つ街灯はわずかな光量しかなく、薄暗く静寂の船着き場に着くと客たちはそれぞれの家路についた。謎のアジア人達も「ここがマーレだ」と言い残し、それぞれ勝手バラバラな方向に消えていった。Act.3「うしみつどきの恐怖」ハジマリである。

畑本は動きようがなかった。手元にあるのはわたしから以前届いた協力隊事務所の私書箱が書かれたハガキだけである。畑本は誰もいない周囲を見回し、意を決したように薄暗い海沿いの道を歩き始めた。

少し歩くと前方にタクシーが一台停まっている。畑本はコンコンと窓を叩くと、下がった窓の中にハガキを突っ込み何かしゃべっている。運ちゃんはきいたことがわかっているのかどうなのか、ハガキを返し窓を閉めた。畑本はなす術もなくザックを置き、道に腰をおろし首をうな垂れた。万事休すである。

ミッションチームは笑いをかみ殺してのウヒョヒョ状態で路地の陰からAct.4へのGOサインを出した。謎のアジア人Aの登場である。路地から夜の散歩でもしているかのようにのんびり歩くいていくと、畑本の前を一度通りすぎ10mも行ったところで振り返り戻り、「キヒネビ?(どしたん)」と畑本の肩を叩いた。

一瞬ビクッとした畑本は疲れきった表情で少しだけ話すとハガキを渡した。Aがわからんなあ、というような顔で考えているところに、たまたま通りかかった風のBが、「キヒネビ?」と混ざってきて、それなら俺知ってるで、というようなやりとりを交わす。

Aは畑本に、「オーケーだ。こいつが知っている!」とジェスチャーで示すと、畑本の表情が瞬間的に曇天からサンシャインに変わり、Bの手を強く握りしめ、Aに何度も何度も頭を下げた。

直線で5分ほどの道のりを、あえて細い道ばかり選んでグルグル引き回した後、協力隊員の集会所(ドミトリー)に到着した。Bは鍵のかかっていない入口の扉を開けると、誰もいない部屋に勝手に入り込み電気をつけ、畑本を手招きして中に入れた。

なされるがままの畑本は疑いもせず素直に部屋に入り、「イシンデ(すわって)」とソファを指差されると素直に腰をかけた。すると、BはAとディベヒ語で二言三言交わし、「じゃあ」というような手を畑本にむかって挙げると家の外に出ていった。

いよいよラストActのはじまりである。5分後、Cがドミトリーに突入。安堵の畑本にむかってディベヒ語で声高に怒り出す。即刻家を飛び出すと、外で待っていたDとともに再突入。2人して目を吊り上げ、ディベヒ語でがなりたて、畑本を指差しながら叫び続ける。

そこのところへ、E、F、Gの3人が強行突破の波状攻撃でダメおしにかかる。畑本は完璧にパニックであった。まわりを謎の男達に囲まれ、訳の分からない言葉でこれでもかこれでもかと攻撃され続けられる。

「アイアム、コウベこうこう、・・、コウベハイスクール・・、マイティーチャー・・」と畑本はハガキを男達に向け、しどろもどろの英語を泣きそうな声で発していた。小便をちびるかもしれない。終演である。

「エーイ(おーい)、キークラニー?(なにしてるん)」とサイトウが部屋に入っていく。畑本と視線があったがすぐに視線は外され、畑本は男達に向ってなにかしゃべっている。

ゲッ、わかってない!?、「はたもと!おれやおれ!」

「えっ!?、……せんせえーーーー!!!!!」
# by saitoru1960 | 2004-03-19 15:55 | モルディブ

アジア麺くらべ

アジアの国々を歩いているとバラエティーに富んだ麺を食べることができる。

小麦粉が原料の中華麺に始まり、そば粉やでん粉で作った韓国冷麺、米粉で作ったベトナムのフォーなど、原料一つとっても様々で、そこに麺の形状や調味料などの違いを挙げだすと、「アジア麺・行列のできる店!」なんていう本が一冊できること間違いなしの豊富さである。

そこのところに、日本のオリジナルと考えられるインスタントラーメンという「文化」が、広くアジア全域にひろがり、アジア麺事情をより複雑にさせている。

モルディブではパーティーをする時に、ちょっと贅沢な食べ物として「ヌードルス」が登場した。袋に入っているインスタントラーメンをバキバキに割って大きなたらい(!)に放り込み、そこに麺がちょうどほぐれるくらいのお湯と袋に入っていた粉スープ、かつおのフレークや玉ねぎの炒めたもの、ケチャップなどを適当に投入し、グチャグチャに混ぜ込んで完成。

最初見たとき、何じゃこのめちゃめちゃな作り方は!?、と驚いたのだが、一口食べると、かつおカレー一色のモルディブ食事情の中では、やったね!と、ちょっと小躍りするくらいインパクトある簡単ウマウマ料理なのであった。

さて、韓国に初上陸し港町プサン(釜山)にて出会った生麺の話である。

春まだ盛りでない3月、上陸し最初に食べたのはおきまりの焼肉アンド冷麺であった。焼肉後の冷麺はなるほどモチモチした噛みごたえのある食感で、さすがだったのだが如何せん冷たすぎた。焼肉を食べた後なのでなんとかもちこたえていはいたけれど、店の外に出てウインドブレーカーをはおりながら、あーさむ、とおもわず背中を丸めてしまったほどである。

焼肉屋を出て、国際市場あたりの偽物ショップなんかを冷やかし歩いているとき、道の真ん中に、ビールケース数個の上に板を乗せ、風呂用のプラスティック椅子を置いただけの屋台と呼ぶには少々貧弱すぎる麺屋を発見した。

鍋からは湯気がモワモワ立ちあがり、あたたかい汁の匂いも鼻腔をくすぐって、冷麺で冷えた体には反射的に唾が出てくるシチュエーションであった。

とりあえず、籠に入っている細いきしめん風の麺を指差し、「オルマエヨ(いくら?)」とガイドブックのハングル会話講座からことばをひろって、座っている小太りのおばさんに告げた。

「○#△*・・」と返ってきたが、全く数字が分からなかったので紙に書いてもらった。すると百円ちょっとの値段だったので、うなづいて「ちょーだい!」と日本語で答えると、ニコッとして、煮立っているお湯の中にその麺を放り投げてくれた。

具はつみれやもやし、きざみねぎといったどこにでもあるものだったけれど、澄んだ色のだし汁はしじみからとったもので、細いきしめん風麺にほのぼのと実によくあった。

麺を食べきり汁を全て飲んだ後で、おばさんの顔を見て、だし汁の入った鍋を指差し、からになった丼の上に指を動かしながら、「もうちょっと汁くれない?」というような顔をするとふとっちょかあさんは、再びニッコリして、おたまで汁だけ丼に注いでくれた。

心から温まる、超私的お勧め麺であった。
# by saitoru1960 | 2004-01-10 15:53

ベトナム戦争とアメリカ

私はベトナム戦争を知らない。

1960年代初頭から1975年4月30日にわたって繰り広げられたベトナム戦争に大人達は大いに騒いでいたけれど、60年に生まれ、終戦当時中学3年のわたしにとって、戦争終了後のバタバタ騒ぎも何ら関係のないものであった。

『北ベトナムと南ベトナムの武力衝突。それは北ベトナムについたソ連、中国と南ベトナムについたアメリカとの政治戦略的な戦争ともいえた。

3代にわたる大統領、1500億ドルの巨費、年間54万人の兵士派遣。それほどまでにアメリカの威信がかかった戦争にアメリカは負け、ベトナムから撤退した。

アメリカ軍の犠牲者は5万8千人。ベトナム人に至っては200万もの人が犠牲になったといわれている。

そして、大量に散布された枯葉剤の暗い影は、今なお両国の人々を苦しめてもいるのだ。

この戦争の大きな特徴の一つに、戦争の前線がなかったことがあげられる。軍隊同士が向かい合う場がなかったのである。

北ベトナム側は南ベトナム領土内でゲリラ戦を展開。敵を待ち伏せし、短時間の攻撃を仕掛けた後はさっと引き上げるという戦略で、軍隊同士の正面きった戦いはなく、地の利を活かした小競り合い的な戦闘が多かった。

アメリカに真っ向勝負をかけ戦っても、勝ち目のない事を北ベトナム側は認識していたのだ。

いつどこからともなく仕掛けられてくる戦いに、前線のアメリカ兵は恐れおののき、しまいには戦力を喪失し、軍隊の指揮の低下を招いたのである。日本は、派兵こそしなかったけれど、沖縄、厚木などの基地がアメリカ軍の後方支援の重要な役割を果たすなど、アメリカ軍の強い味方として存在していたのであった。』

ベトナム戦争を調べてみると、このようにまとめることができた。

ベトナムより遠い中東イラク。自分の脚で周辺の国を歩き、そこで暮らす人々の生活にも具体的なイメージを持つ事ができる今、距離は遠くなっても、以前のようにどこかの国の誰かのことではなくなっている。

終戦からまだ30年も経たず、『ゲリラ』を『テロ』とよみかえ、イラクで自爆テロが頻発している現状に想いをはせると、アメリカは再び同じ道を歩いているような気がしてならない。
# by saitoru1960 | 2003-11-22 15:52 | アジア

マレーシア人ルビさんと過ごした10日間

私がかつて2年間生活したモルディブは100%イスラム教徒の国であった。

同じように、妻が洋裁を教えながら2年間暮らしていたマレーシアもイスラム教徒が多数派の国で、そこで生活していくうちに、当初強烈に感じていたモスリム(イスラム教徒)に対する、
「なんでだろう」感はかなり薄れていった。

仏教を普段意識していないえせ仏教徒(わたしのこと)は、逆にモスリムに質問されることで、自分にとって「宗教とは何か」を真面目に考えさせられることが多かった。

マレーシア半島の南端にあるジョホール州。ルビさんは偶然にも妻が2年間生活していた村のすぐそばで小学校の先生をしている人であった。

教科はイスラム教。小学校のカリキュラムにイスラム教があるというだけで、「?」マークがつくに違いない。

でも、宗教を人生のど真ん中に置いて、心のよりどころとしている人々にとっての「宗教」は、まさに教育の原点にもなるほどの重さがある。

八百万(やおよろず)の神が住む国に暮らし、表面だけの宗教感しか持ち得ない大多数の日本人にとって、「宗教」が自分自身の柱として存在することを理解するのにはかなりの時間と労力が必要となる。

ルビさんはマレーシアから10個近くのインスタントラーメンとカップラーメンを持ってきていた。イスラム教徒にとって豚や犬は不浄の生き物となる。

豚肉はもちろん口にせず、他の動物でもイスラムの教えにそった形で殺していなければ食べてはいけない。

理由は、イスラム経典(コーラン)にそう書いてあるから。

たとえスープやエキスであったとしても同じ事で、「味の素」は東南アジアでも広く使われている日本の調味料であるけれど、それに豚肉からとったエキスが入っているということで大騒ぎになった事件が数年前にあったほどである。

そのマレーシアから持ってきたラーメンには「ハラル」マークがついている。イスラムの教えに従い処理されたものだけしか使っていません、モスリムの人は食べても大丈夫です、というのが「ハラル」マークである。

イスラム教徒が暮らす国では「ハラル」かどうか、が食べる上で最も重要なポイントになり、日本に行き、もし食べるものがなければインスタントラーメンで乗り切る覚悟でわざわざ持ってきているのであった。

あまり知られていないけれど神戸には1935年に作られた日本最初のイスラム寺院(モスク)が、異人館街の西端にあり、神戸近郊で生活しているイスラム教徒が金曜礼拝の日には100人ほど集まってくる。

モスリムは1日5回、決まった時間帯にメッカ(サウジアラビア)の方角(日本では西)を向いてお祈りをする。

祈りの場所はモスクでなくても構わないが、イスラム教の安息日にあたる金曜日だけはモスクでのお祈りを常としている。

日本に来てからは我が家の部屋でしかしていなかったルビさんも、「神戸にはモスクがあるよ」と連れて行くと、そこに来ていたエジプト人、マレーシア人のモスリムと共に、久し振りにきちんとお祈りをしていた。

世界中どこにいても、モスリムはモスリムとしての時間の中で生活しているのであった。

「なぜ、スカーフをずっと巻いているの?」、

「なぜ、豚肉は食べないの?」、

「熱帯雨林はどうしてあんなに大きいの?」、

高校で受けたのと同じような質問を、娘が通う小学校へ行った時にも、ルビさんは繰り返し受けたようである。

「わからない、モスリムだから、って答えても良かったんだけどね。反対に、じゃあ、なんで日本の木はこんなに小さくて低いの?、と尋ねたら、どういう答えを日本人は返せるんだろうね」

と、ルビさんは国際理解を進める上で、忘れがちにされる部分を暗示するような話をしてくれた。

自分にとってのあたり前が、他の人にはあたり前には映らないってことは同じ日本人同士でも時々あることだし、国籍、文化、習慣、宗教などが違えば、「えっ?なんで?」というようなことはいくらでも出てくる。

でも、「えっ?なんで?」で終わらせず、「へーそうなんや」というところでいけば、そこからつきあい始める事はできるようになる。

価値観の違う人間が仲良くつきあっていくためには、お互いの違いを理解しあうよりも、お互いの違いを知ることの方が大切で、相手の価値観を知識として知っているだけでも、相手に対する思いやりや気配りの心を持つことはできるし、同じ人間として同等につきあうことができるようになる。

「生まれてくると、お宮参りや七五三で神社に行き神主さんにお払いをしてもらう。大晦日にはお寺の除夜の鐘をきき、日付が変わり新年になると神社に行く。結婚式はキリスト教の教会でして、死んだ時はまたお寺で墓に入る。日本人にとって宗教ってなんなの?」

マレーシアに行き、むこうでこのような質問を幾度ども受けたら、どう答えることができるだろう
# by saitoru1960 | 2003-10-20 15:50 | アジア

今感じている、イラクと日本のこと

田中宇が「イラク(光文社新書)(2003・3・20)」で書いている文章がなんだか、しみじみと響いてきて、今回は少々長くなるけれど、抜粋してみた。

戦争が始まる前の2003年1月にイラクに入って書かれた著書なのだけれど、現代の日本人に対する意見の部分に共感を覚えた。

以下抜粋***************

終章:「社会の根っこ」か「個人の自由」か

イラクの濃密な社会を見て、「戦前の日本の社会もこんな風だったかもしれない」と思った。

今のイラクと同様、戦前の日本にも「相互監視」「秘密警察(特高)」「軍国主義」など、社会の闇の部分があった反面、今よりも濃密な人間関係があったと思われる。

今の日本に比べ、社会の「根っこ」が濃密だったということだ。

この「社会の根っこ」は、人々にまとわりついて「個人の自由」を抑圧するし、根っこが腐ると「賄賂」など政治的な腐敗も増える。

イラクでは「心づけ」(バクシーシ)つまり少額の賄賂が常態化しているらしく、私たちもあちこちで「心づけ」や「寄付」を要請された。

あるイラク人は「ヨルダンは賄賂がないから良い」としみじみと言っていた。ヨルダンはアメリカナイズが進み、イラクより「根っこ」が小さいから、賄賂の習慣も少ないのだろう。

だが、イラクから日本に戻ってみると、社会に「根っこ」が少ないことは、良いことばかりではないと思えてきた。

「自由」なのは良いのだが、半面「人生で何をしたら良いかが分からない」という人がものすごく多い。「自分探し」がうまくいかないことが、若者の深刻な問題のように思える。

経済成長が止まって面白い仕事が減った結果、中年のサラリーマンでも、会社が面白くない、会社が自分を必要としていない、と感じてる人が多い。

日本は、国家としてもどっちの方向にいったらいいか決められない「根無し草」的な状態だ。

9・11以降のアメリカが自壊的な混乱期に入っていることに対し、西欧諸国はアメリカと距離を置いた新しい関係を模索し始めているが、日本では国民的感情としては「反米」が高まっているものの、国家としてはアメリカに盲従する以外、方策が思いつかない状態だ。

国民的にも「アメリカには反対」だとしたら何に「賛成」なのか、日本がどっちに行くべきか考えあぐねている。

韓国では反米がナショナリズムの高揚につながっているが、日本では「ナショナリズム」と聞いただけで「悪いもの」と皆考え、そこで思考が止まってしまっている。

私には、こういう日本の現状は、60年前にアメリカとの戦争に負けて「根っこ」が刈り取られたことと関係していると思われる。

「軍国主義」とか「国家神道」が良い、と言っているのではない。アメリカは1945年に日本を降伏させ、その後日本を改造していく中で、日本が二度とアメリカの脅威にならぬよう「根っこ」を切り取ってしまったのではないか、日本人はそのことを考えるべきではないか、日本人は「根っこ探し」が必要だ、ということである。

アメリカのくびき

これまでは、アメリカが「正常」な国だったから、日本は対米従属でもかまわなかった。だが、9・11以降のアメリカは、もはや理想から遠く、正常でもない。

それは2002年初め以降のイラク侵攻をめぐるアメリカ政府の動きに象徴されている。

日本が無前提でアメリカに従ってきたこれまでの状態を見直すことが、国益の観点からも、善悪の観点からも必要になっている。

ところが日本の人々や政府は、今後の方向性を考える際の「根っこ」を敗戦とともに刈り取られてしまっているので、アメリカ離れを実現することができない。少なくとも1945年に立ち返って自分たちのこと、世界のことを考え直さないと、日本人はこれからの方向性を決められないだろう。

こうした私の意見に対し「戦後の日本人は国際主義、国連主義に立っている。

それが日本の根っこだ」という人もいるだろう。だが日本人がいうところの国際主義は、アメリカを中心とした国際主義であり、アメリカが正常でなくなってしまった以上、戦後の日本の知識人たちが希求した国際主義もまた、見直しを迫られている。

このところイラク攻撃をめぐり、フランスやドイツ、中国、ロシアなど「国際社会」の面々が国連などの場でアメリカに対抗している。

これは新しい国際主義であるが、独仏中ロなどは、いずれも自分たちで向かおうとする方向が、日本よりずっと明確だ。日本人が彼らと同じ地平に立つには、アメリカ抜きの国家的意志、戦前にさかのぼった自分たちの根っこについて考えていくことが、まず必要だ。

もし日本が国を挙げてそれをやり始めたら、アメリカのマスコミはいっせいに「日本は軍国主義を復活させ出した」と非難始めるだろうが、それはアメリカの対日利権を守るためであり、真に受けるべきではない。

また、中国や韓国も反日的な論調を強めるだろうから、日本人が「根っこ」を取り戻すには、まず中国や韓国などと過去のわだかまりを乗り越える良い関係を作る必要がある。

その上で日本が踏み出せば、アメリカが攻撃してきても、アジアの側は日本を擁護してくれるはずだ。その手順を間違えると、アジアとアメリカの両方からたたかれて終わることになる。

最近の日本の右派論調は「反中国・反北朝鮮」だが、これは「民族主義」などではなく、逆に気づかぬうちに、または故意にアメリカの傀儡になってしまっているとすら思える。

イラクは独裁国家で密告社会、おまけにアメリカからは経済制裁され、侵攻されて国を破壊されそうになっている。だが、社会的な根っこ、アラブの伝統社会というアイデンティティーは、たくましく繁茂している。

日本は経済的には豊かだが、精神的に根無し草だ。そして両国は、抱えている問題の根源のひとつが「アメリカ」だという点で一致している。

日本もイラクも、今後の可能性がないわけではない。イラクには潤沢な石油がある。

日本は「大陸の端にある島国」という地政学的な利点があり、ほぼ単一民族で国の安定を維持しやすい。精神的に不安定になっても、政治的には安定を維持できる。

両国とも、国民性は勤勉だ。イラクの場合は湾岸戦争以来、日本では第二次大戦以来の「アメリカのくびき」からどう脱するかということが、今後の両国の国民にとって重要だろう。

イラクだけでなく、いろいろな海外の国々へ行き、そこの社会について見聞きして考えるたびに、私の思考が最終的には行き着くテーマは、日本と日本人に関すること「日本とは何か」ということである。私の国際情勢の分析は、他者を知ることで、回り回って自分を知る、ということになっている。
# by saitoru1960 | 2003-07-12 15:48 | ひとりごと

スリランカのコフ事件

協力隊ではそれぞれの国に派遣される前、語学を中心に様々な勉強をするため訓練所に約3ヶ月間缶詰にされる。

かなりの時間語学に費やすので、ゼロからスタートする言葉でも現地に着いた時には普通にしゃべってしまうほどになっていた。

モルディブ隊は日本で教師になってくれる適当な人がいなかったので、訓練所では英語を勉強してでかけた。ただ私の場合、中学校から習っている英語にこの3ヶ月の訓練を上乗せしても、ペラペーラ話せるようになる、というレベルまでは到底到達せず、常に身構えながら必死に頭をフル回転させて訓練を乗りきってきていた。

現地到着後、最初に散髪屋に行った時は、切れの悪そうなはさみを持ったスリランカ人散髪師に、なんちゅうたらええんやろか、とドキドキして椅子に座った。

日本にいても、いきつけの散髪屋以外ではどんな風にされるか恐いので、極力他へはいかない人生を送っていたのに、スリランカ人相手に刈り方をどう英語で説明したらいいのか、頭をかかえていたのである。

そんな風に英語にドキドキ状態一杯の活動当初、半年に一度の健康診断のためスリランカに出かけることになった。

狭い部屋で言葉のうまく通じない外国人から至近距離で診察を受け、それに答えなければいけないのである。

いわれた事が分からずに、パードン?(なんですかあ?)、と答え続けてオシマイって事だってありえる。

ちょっと日本と違う所があるから気をつけて、と先輩隊員に脅かされてもいたのでなんとも落ちつかずソファに座って順番を待っていた。前の同期隊員が終わり、首をすこしかしげ困惑気な表情で出てきた。いよいよ虎穴に突入である。

無表情の医師は椅子を指さし、座れ、という。

「シャツ」。ぬげっちゅうことやな。上半身裸になる。聴診器を胸にあてられる。

「バック」。うしろを向け、やな。素直に従う。背中に聴診器をあてる。ここまでは日本での診察と何ら変わらない。よゆう、よゆう。

続いて、後ろにおいてあるベッド指差し、「ベッド」といい、立ち上がった私のズボンをつまんで、「パンツ」という。

えー!?、パンツう!?と驚いていると、手を上から下へ動かす。とりあえずズボンを脱ぎ、パンツ一丁の情けなし状態になると、「オーケー」という。

ベッドに上がり横になるとなにやらいろんな方向から私の身体を眺めている。一体何を見ているのか気になるがまっすぐ上を向き体を硬直させ続けた。

少しの沈黙の後、スリランカ人医師はパンイチの情けな状態で天井を向く私に、「ブリーフ」と言った。これ以上どうしろというのだ。

少し下げる。「モア」。もう少し下げる。見えそうになる。「モア」。え~~!?。「モア」。

えーい!、と半ばやけくそ気味に思いきりパンツを下げきる。

ベッドで静かに横たわる私の視線は、天井で回る扇風機の羽根を見るでもなしにうつろにぼやけ、若干の静寂が部屋に漂った。

完全無防備の私にとって、その沈黙の時間は心臓がドックンドックン拍動し続けるかなり長い時間に感じられ、この後どういう展開になるのか心をギッと構えていた。

「*#」スリランカ医師が沈黙を破って何かしゃべった。簡単な短い言葉なのだが聞き取れない。反応せずにいると、また同じセリフを言った。「コフ・・」と聞こえた。

大脳にある英単語カードを超高速回転でめくりまくり、コフコフコフコフと心の中でつぶやきつづけた。

「コフ」はたしか「咳」だったはずだけど、どうもこの状況と「咳」とが結びつかない。

「コフ」は咳じゃなかったのか、と自分の記憶力を疑い黙っていると、医師は少し語気を荒げるように、もう一度確かに「コフ!」と叫んだ。

えーい、違ってたら違っててええわい、とふんぎり、思いきって、「ゴホオッ!」とせきこんだ。
すると医師は、すぐさま、「オーケー!」と言い、私にパンツを上げるようなしぐさを見せたのであった。

「?」

あまりの予測外な急展開に私はなにがなんだか分からず、とりあえずは無罪放免の身になったので、すぐさまパンツをあげ、医師の指さすドアの方へ、なんなんだあこれはあ、とうなだれながら向った。

その日、同じような謎のコフ時間を共有した初体験組と、過去数度のコフ体験をしている先輩隊員組とが一緒になり、いまだ謎に包まれた『なぜあの状態でコフなのか』というテーマでの酒盛り討論会は、深夜遅くまで盛り上がりをみせたのであった。
# by saitoru1960 | 2003-04-26 15:47 | アジア

アメリカの平和集会でイラクの少女が・・

アメリカ人がイラクに爆弾を落とすことを考えるとき、頭の中で想像するのは軍服を着たサダム・フセインとか、銃を持った黒いひげの兵隊とか、バクダッドのアルラシードホテルの玄関フロアに「罪人」と説明つきで描かれた父ブッシュ大統領のモザイク画とかでしょう。

でも、知っていますか?イラクに住む2400万人の人たちのうち半分以上は、15歳以下の子どもなんです。1200万人の子どもですよ。私と同じような子どもたちです。

私はもうすぐ13歳ですけど、もっと大きい子たちや、もっとずっと小さな子たちがいて、女の子でなくて男の子もいるし、髪の毛は赤毛じゃなくて茶色だったりするでしょう。でも、みんな私とちっとも変わらない子どもたちです。

ですからみなさん、私をよーく見て下さい。イラク爆撃のことを考えるときは、頭の中で私のことを思い描いてほしいからです。みなさんが戦争で殺すのは私なんです。

もし運がよければ、私は一瞬で死ぬでしょう。1991年2月16日にバグダッドの防空壕で、アメリカの「スマート」爆弾によって虐殺された300人の子どもたちのように。防空壕は猛烈な火の海になって、その子どもたちやお母さんたちの影が壁に焼きつきました。いまでも石壁から皮膚を剥ぎ取って、お土産にできるそうです。

けれども、私は運悪くもっとゆっくり死ぬかもしれません。たったいまバグダッドの子ども病院の「死の病棟」にいる、14歳のアリ・ファイサルのように。湾岸戦争のミサイルに使われた 【劣化ウラン】のせいで、彼は不治の白血病にかかっています。

さもなければ、生後18ヶ月のムスタファのように、内臓をサシチョウバエの寄生虫に食い荒らされて、苦しい不必要な死を迎えるかもしれません。信じられないかもしれませんが、ムスタファはたった25ドル分の薬があれば完治するのです。でも、みなさんが押しつけている経済制裁のためその薬がありません。

さもなければ、私は死なずに何年も生きるかもしれません。サルマン・モハマドのように、外からではわからない心理学的攻撃を抱えて・・・。彼はいまでも、アメリカが1991年にバグダッドを攻撃したとき、幼い妹たちと経験した恐怖が忘れられないのです。サルマンのお父さんは、生きのびるにしても死ぬにしても同じ運命をと、家族全員を一つの部屋に寝かせました。サルマンはいまでも、空襲のサイレンの悪夢にうなされています。

さもなければ、3歳のとき湾岸戦争でお父さんをアメリカに殺されたアリのように、私は孤児(みなしご)になるかもしれません。アリは3年のあいだ毎日、お父さんのお墓の土を手でかき分けては、こう呼びかけていたそうです。

「だいじょうぶだよ、パパ。もうパパをここに入れたやつらはいなくなったから」と。でもそれはちがったみたいね、アリ。そいつらはまた攻めていくらしいもの。

さもなければ、私はルエイ・マジェットのように無事でいられるかもしれません。彼にとっては、学校へ行かなくてよくなり、夜いつまでも起きていられるのが湾岸戦争でした。でも、教育を受けそこなったのルエイは、いま路上で新聞を売るその日暮らしの身の上です。

みなさんの子どもや姪や甥が、こんな目にあうのを想像してみてください。体が痛くて泣き叫ぶ息子に、何も楽になることをしてやれない自分を想像してみてください。崩れた建物の瓦礫の下から娘が助けを求めて叫ぶのに、手がとどかない自分を想像してみてください。子どもたちの目の前で死んでしまい、そのあと彼らがお腹をすかせ、独りぼっちで路上をさまようのを、あの世から見守るしかない自分を想像してみてください。

これは 冒険映画や空想物語やビデオゲームじゃありません。イラクの子どもたちの現実です。最近、、国際的な研究グループがイラクへ出かけ、近づく戦争の可能性によってイラクの子どもたちがどんな影響を受けているか調べました。話を聞いた子どもたちの半分は、もうこれ以上生きている意味がないと答えました。

ほんとに小さな子たちでも戦争のことを知っていて、不安がっているそうです。5歳のアセムは戦争について、「鉄砲と爆弾で空が冷たくなったり熱くなったりして、ぼくたちものすごく焼け焦げちゃうんだ」と語りました。10歳のアエサルは、ブッシュ大統領にこう伝えてほしいと言いました。「イラクの子どもが大勢死にます。あなたはそれをテレビで見て後悔するでしょう。」

小学校のとき、友だちとの問題は叩いたり悪口を言い合ったりするのではなく、相手の身になって話し合うことで解決しましょうと教わりました。相手の行動によって自分がどう感じるかをその子に理解してもらうことで、その行動をやめさせるというやり方です。

ここで、みなさんにも同じことをお願いします。ただし、この場合の“相手”とは、いま何かひどいことが起ろうとしているのを待つしかないイラクの子どもたち全部です。ものごとを決められないのに、結果はすべてかぶらなければならない世界中の子どもたちです。声が小さすぎたり遠すぎたりして、耳をかしてもらえない人たちのことです。

そういう“相手”の身になれば、もう一日生きられるかどうかわからないのは恐ろしいことです。

ほかの人たちが自分を殺したり、傷つけたり、自分の未来を奪ったりしたがったら、腹が立つものです。ママとパパが明日もいてくれることだけが望みだなんて、悲しいです。そして最後に、自分がどんな悪いことをしたのかも知らないで、何がなんだかわかりません。

(翻訳:星川 淳)
# by saitoru1960 | 2003-03-10 15:45 | ドキリとしたこと

イスラム教は悪じゃない

2001.9.11の数字から、ほとんどの人は世界貿易センタービルのテロ事件を思い浮かべるはずである。

そしてそこには「犯人はイスラム教徒」という公式がなんかしら存在し、その答えとして、「イスラム=悪」なんてものも薄らぼんやりある気がして実に怖い。

たとえば、「広島の原爆の跡はもう大丈夫なのか?」と外国に行った時あなたが訊ねられたら、「ほんとにもう!なーんも知らんのん!」と瞬間的に嫌悪感を持ちながら反応するはずだ。それに近いものが「イスラム=悪」という答えの裏にはある。

他の国の歴史や文化、習慣の一端だけをとらえてその国そのものを決めつけることはかなり危険なことなのだ。

アメリカのアポロ11号が初めて月面着陸したのは今からもう33年も前。夜空に青白く輝く「月」へロケットが飛び、人類の記念すべき第一歩を印した興奮を今も覚えている。

イスラム社会では「太陰暦」が今も「イスラム暦」として使われ、この12月5日、1423年の「断食の月」9月が終わった。

月が時間の基準になっているので「日没」で一日が始まる。月の満干で一ヶ月の長さが決まるので、月の形で「何日」かがわかる。実にわかりやすい暦である。(明治の初めまでは日本もそうだった。「陰暦」というやつ)

また、イスラム社会には「赤十字社」はなく、その代わりに「赤新月社」があるのも宗教からきている。

救急車の横っ腹には、赤い十字架ではなく赤い三日月が描かれている。「月」はイスラム教徒にとってはまさに神々しい存在なのだ。

その聖域を33年前アポロ・アメリカは侵した。自分にとって心のよりどころとなるもののシンボルが異教徒によって犯された、と想像してみてほしい。

月面着陸は、歓喜にわく多くの人間がいた一方、テレビの前で怒号の声をあげ、すすり泣いていた多くの人間がいた世紀のショッキングな出来事だったのだ。

キリスト教のクリスマスを楽しみ、神道の神社に初詣をする時期がやってきた。強い宗教観を持たない日本人には理解しづらいことが世界には数多くある。
# by saitoru1960 | 2002-12-16 15:45 | アジア

インドの摩訶不思議

インドへはアジア陸上競技選手権でモルディブ選手団3名を引き連れて上陸した。

競技場と選手村の往復しかないなか、なんとかタクシーをチャーターしてタージマハールを見に出かけた。タージマハールはインドを紹介する時によく目にする建造物で、見れば、「あーあれかあ」とうなずく人も多い超観光スポットである。

自分の妻の為に贅の極みを尽くし建てられた大理石の巨大イスラム寺院は、当時の繁栄を想像するにたやすいほど平原の中に静かにドッカリと存在していた。

ここで私は、自分の感情を自分で理解できなくなる、今のところ人生最初で最後の不思議な体験をしたのである。

風光明媚な大自然や風景を前に、いくら感動的美的であってもイッタイどれくらいの時間見ていられるかとなると、せいぜい2,3分というところで、「もうわかりました。感動しました」と、その場をはなれてしまうはずである。

「おおっ!!」という感情は瞬間的に湧きあがるが、あまり持続力がない。

それが、「何でこれほどまで長く見ていられるのだ!?」と原因究明に困るほど、タージマハールは見ていて飽きなかったのである。

建築物の遠景を真っ正面からじっと眺めていると、10分経っても15分経っても釘付け状態が続き、無理矢理「バランスが良いからなのだ」と、理由をこじつけないとその場を離れられない不思議な情動が湧き起こっていた。

ひょっとすると、「この場を離れると、もうこんなものにはお目にかかれないのだよ~」、と今もその場所にとどまっているシャージャハーン王の亡霊が、お金を落としていく観光客をひきとめにかかっているのかもしれないな、とも考えたりした。

世界第2位の人口を持つ国インド。一度この国を訪れた日本人は、ぞっこん惚れ込むか、二度と来たくなくなるか、の二派に分かれるといわれている。

テレビの映像ではなく、自分の目で見てどう感じるか。まさに旅の醍醐味はこのあたりにある。

タージマハールからの帰り道に首都ニューデリーの中心部へとむかった。

タクシーの窓から整然とした、ある意味インドらしくない首都中心部を眺めていても、日本では見ることのない摩訶不思議な光景が次から次へと目に飛び込んできた。

神聖なる野良牛が交通渋滞でごった返す中、わがもの顔で道の真ん中をのんびり歩いたり、中央分離帯にのべーっと寝そべっていたりするし、BMWなどの高級外車とらくだ駱駝の引く台車が隣り合わせになって交差点で信号待ちしていたりする。

ニューデリーを離れると、女性はサリー以外の衣服を着る事がほとんどないのに、ジーパンにTシャツや、スーツを着こなしている女性が俄然登場してくるし、道路工事をしている中にはカースト(身分制度)の低い女性も含まれていて、サリーのすそを時折気にしながらも逞しく天秤棒を担いだりしている。

はたまた、路上に落ちている牛糞を素手で円盤状に伸ばして道端で乾燥させ、燃料にするという作業もいたるところで違和感なく目にした。

日本で見たならば、ウゲッー、となる風景もインドで見るとそういう感情が湧かず、逆に、うーむっこれはイッタイ何ナノだ?、と静かに何かを考えさせられる事になるのがまたまた不思議な体験であった。

インド門近くに通りかかった時、遠く前方で元気に遊ぶ子供たちの姿が見えた。10歳ぐらいで裸足の子供たちが6、7人で鬼ごっこのようなことをしている。

子供はどこでも元気だよなあ、などと眺めているとちょうど信号が赤になり、その子達の横でタクシーが止まる形になった。

写真でも撮ってみようかと、カメラを取り出し構えると、いきなり遊んでいた3人が、脱兎の如くこちらに向って全速力で走ってきたのである。

な、な、なんだあ!?、と驚いていると、あいているタクシーの窓から腕をつっこんできて、

「バクシーシー(おめぐみください)」

と、もう片方の手を口にあて、さも恨めしそうな顔を作る。

カメラ=金持ち観光客、と瞬時に判断して突撃してくる逞しさに脱帽であった。
# by saitoru1960 | 2002-10-21 15:39 | アジア

ある医師の死

「はあーい、つぎー。さいとうさーん。どおぞおー」
と、いつもの元気な声が診察室から聞こえてくるはずだった。

40才をむかえ、ボールを投げると右の肩が痛む状態が続いたため、わたしは昨年(’01)3年ぶりに佐藤整形外科診療所を訪ねた。

いまさら陸上の試合に出てやりを投げるわけでもないので、ほっておいても日常生活に支障はなかったのだけれど、石野先生に会って久し振りに話を聞く事で、自分自身加齢のせいだと感じていることを納得できそうでわざわざ出かけた。

「はい、つぎのひと。どうぞ」
のどがつぶれたような明らかに以前とは違う弱々しくかすれた声が診察室から聞こえてきた。いぶかしんで診察室のドアを開けると、満面笑顔で小さなたれ目のいつもの石野先生が、

「おー、せんせー、ひさしぶりやねえー」
と、椅子に座って懐かしげに迎えてくれた。先生の屈託のない笑顔とは正反対に、わたしは瞬間的に思考が少しの間止まってしまった。先生の体の大きさが急変していることに愕然としたのである。

喉の手術をしたという事を人づてに聞いてはいたのだけれど、まさかここまで変わり果てているとは思ってもみなかった。
前年肺ガンで死んだ父の姿が石野先生に重なった。

頬骨が出て背中が少し曲がり、髪の毛がパサついている。皮膚の色に元気がなく、しわが増え深くなっているのが一目でわかった。
その時わたしは 「先生具合悪いんですか」 とすぐに聞くことができなかった。

聞いた所で、「いやあ、おれなあ、肺ガンになってもうてん」と先生なら、いつものように軽く豪快に笑い飛ばして答えてくれたかもしれない。そう返してもらったとしたら、わたしはそれにどういう言葉で返す事が出来ただろうか、と今更ながら考え込んでしまう。

それほどまでに久し振りに会った石野先生の姿は変わり果ててしまっていた。

「ここの骨がひっついてないねん。大抵の人はひっついとんやけど、100人に1人くらいはこんな人がおるんや。まあ、そのうち筋力がついてきたら慣れてきて痛みもなくなるやろうから、マッサージようして、少し量減らして練習しい。でも、筋力はしっかりつけなアカンで」

高校2年の冬、陸上競技の練習に明け暮れていたわたしが、どうしても痛みのとれなかった腰を診てもらったのが石野先生との出逢いであった。

「痛かったら練習を止めて、痛みがなくなったら練習を始める」、という大半の整形外科に診てもらいに行くと出される指示は、「練習しなければ、全国インターハイには出られない」、という単純な公式をアタマの中心にすえ、全国インターハイ出場を夢見る17才の高校生には何の薬にもならなかった。

そんな時代、石野先生の勤める佐藤整形外科診療所だけは本当の薬を調合してくれていた気がする。その薬は切れる事がなく、ひとたび患者の心に入り込むと一生効力のある持続性の強いものであった。

「古代人の人骨の中にも骨折して治った痕が残っているものがあるんや。ギブスもない時代でも動かさへん工夫をすれば、骨折はキレイに治んねん。骨が折れたからって絶対ギブスをまかな治らへんわけちゃう。要は本人の気持ちの問題やな。」

大学を出て23才のわたしが神戸高校に赴任すると、石野先生は今度、自分が顧問となる陸上競技部のOB会副会長という立場にもなったので、以前にもまして話を聞けるチャンスが増えた。

「おれなあ、なんか走んの好きやってん。3年なって出れる試合がなくなるやん。でも、おれなあずっーっとクラブ行って練習しとったんや。卒業式の朝も部室行って着替えてグラウンド走っとった。『引退』とかいうとなんかカッコええみたいやけど、好きでやっとったらそんなん関係あらへんやろ」

陸上競技に取りつかれている者ならば、それぞれ原点に持っている「何故陸上競技なのか」という命題への答えを、石野先生はいつも何かの話の中で示唆してくれていた気がする。

ある時、神戸高校の学年講演会で話をお願いしたことがあった。講演が始まってすぐ、ざわついている生徒達に注意を促そうと、担任教師が生徒達の中に入って行った時、
「そこでウロウロ回ってる先生、ほっといたって。きかへんもんは注意しても聞くふりするだけやから。おもろかったらほっとっても聞くやろうし」
と、逆に先生の方に壇上から注意していたのも先生らしい言動であった。

神戸高校で5年勤めた後、わたしは青年海外協力隊に参加し学校を休職する形になった。わたしのとった行動に理解を示してくれる方々が多くいた反面、「陸上競技部の生徒達をほったらかして」、と間接的に非難された意見が聞こえてきたこともまた事実であった。

青年海外協力隊の訓練所で3ヶ月間出発前の事前訓練を終え、出発直前に先生を訪ねると、
「おー、せんせいー。おもろいとこいくんやって。えーなあ。ほんで、なにすんのん」
と屈託なく訊ねてくれた。訓練だけでも参加できて貴重な宝物ができました、と3ヶ月間のことを話すと、「それはええなあ。そんな体験はめったにできるもんちゃうからなあ。がんばってこいよお」 と、先生は自分事のように面白がり送り出してくれた。

2年後帰国して訪ねた時、
「へー、そうかあ。おもろいなあ。メジャーとストップウオッチがあったらどこでも陸上はできるかあ。どこでも走るん好きなんはおるんやな。ほー」

2年間あったことをあいづちうたれるままうれしくなっていろいろ話すと、2年間を反芻しながら、一つの体験が発酵した形でまとまっていった。

日曜日、王子陸上競技場で高校生の試合がある時、ふとスタンドを見ると石野先生が座っていることがしばしばあった。通院してきた選手のことを気にかけ、痛み止めの注射をもち様子を見に来ているのだった。

放課後の練習にどうしても出たい時には、診察時間外でも、朝早く病院を訪ねると関係なく診察してくれた。

全盲の母が娘と手をとりあって100kmマラソンを完走したドキュメンタリーを観て感動し、私も、と1年かけて100kmマラソンへ挑戦した年があった。多い時は月間300kmも走りながら、準備を整え、あと1週間という所まで来て突然足の甲に痛みが生じた。

自分の人生の中でもかなり大きなポイントとなっていた挑戦だったので、迷わず石野先生にすがった。痛み止めの注射を打ってもらい、挑戦の話をすると、また笑って「そうかあ。おもろいなあ。がんばってこいよお」と送り出してくれた。

すると、なにも故障などなかったかのように初めての100kmをボロボロになりながらも気持ちよく完走することができた。感謝の気持ちで一杯になったのはあれで何度目だっただろうか。

インターネット上で、神戸市内患者おすすめ病院を紹介しているホームページがある。パルモア病院(産婦人科)などと共に、
「スポーツマンの夢を大切にして治療やアドバイスをしてくれる。庶民派。見立てが的確で、いい病院や先生を紹介してくれる。20数年信頼して自分も教え子も診ていただいている。先生のお陰で全国大会優勝、日本代表多数輩出。」
と佐藤整形外科が紹介されている。まさに、アスリートの立場に立って診察してくれる先生であった。
診察しながら石野先生は、その選手の体を借りて走っていたのかもしれなかった。

告別式は、「お別れ会」となっていた。あくまでも、俺は俺のやり方でやる、という先生の強い意志を感じた。
お通夜には当然ながらお医者さん関係者が多く見受けられ、神戸高校陸上競技部OB会の方々も多く参列されていたが現役アスリートの姿は見ることができなかった。

アスリート達は先生の「死」さえ知らされることなく、次に自分が「薬」をもらいに行った時、初めて愕然と肩を落とすことになるだろう。もう、心の薬をくれる人がいないことに初めて気づくことになるのだ。

告別式に、故人のけじめとする部分と、残されたもののけじめとする部分の両面があるならば、残された側の一番大切な部分(アスリートの心)がぽっかり抜け落ちている気がして、その分お別れの寂しさが増した。

「~古いか新しいなんて間抜けな者達の言い草だった、俺か俺じゃねえかでただ命懸けだった~やるなら今しかねえ、やるなら今しかねえ、66のおやじの口癖はやるなら今しかねえ~」

30分のお通夜が終了し、私は長渕剛の歌をカーステレオで幾度も繰り返し聞きながら家路についた。自分の心に確実に大きな穴がひとつあいたことを、歌詞を口ずさみながら感じ始めていた。

高校の時に診察後もらった薬はモビラート。大切に大切に少しずつ使い、これさえ塗っていれば快方に向うと信じながらマッサージしていた。それから約15年。昨年行った時も帰りにもらったのはモビラートであった。いいものはいい、簡単な理由だった。

長渕は歌う。「~あたり前の男に会いたくて、しかめっ面したしょっぱい三日月の夜~」

石野先生にはなにもかも“あたりまえ”だっただけなんだろう、と考えると、余計に気持ちが高ぶり、キリキリと胸が締めつけられてきた。

頭の中がカラッポになるよう、張り上げられるだけの声をしぼりだし、叫ぶように歌いながら帰った。

帰宅後、遅い夕食をとり、小学2年生の娘と風呂に入りながら、 「その先生はこんなこといろいろ教えてくれたんや」 と、先生から聞いたいろいろな話を子供相手に一方的にしていると、こみあげてきて涙声になってしまった。

「そしたらおとうさんがこんどはおしえてあげたらいいやん」 と、娘はいつもと様子の違う父の態度に、どう受け止めたのか優しくそう話してくれた。

「そうやな。そうやな」 と答え、娘が出ていった風呂場で一人シャワーを浴びながら涙を流し続けた。

石野先生、いつかこう話してくれましたね。

「わしのおやじなあ。すごいんや。死ぬ時にわしら呼んでわざわざ大切にせーよゆうた言葉があんねん。なんやと思う。『ありがとう』、『すみません』、『どうぞ』の3つや。おれなあ、感動してもてん」

最後に先生はどんな話をしたのでしょうか。
今までの感謝の気持ちを先生には伝えようもありません。
「ありがとうございました」という言葉を文字にすると薄っぺらになってしまいます。

その気持ちはこれからの人生の中で行動で示していかなければいけない、それが石野先生から学んだことへのお返しだと思っています。

ゆっくり眠って下さい。そして、いままでどおり遠くから見ていて下さい。おつかれさまでした。
# by saitoru1960 | 2002-07-10 15:33 | ひとりごと

モルディブから帰って

1988年、7月。
日本を離れ、ジメついたバンコクで2泊したのち、私はコロンボに到着した。

コロンボ空港で出くわした、何をしに来ているのかわからないざわざわうごめく数多くのスリランカ人におののき、市内へと向かう車の無鉄砲な飛ばし方に、思わず車の中で前座席のヘッドレストあたりを強く握りしめていた。

泊まったのはレヌカホテルだった。ついたその晩、レヌカのレストランで夕食をとる時、スリランカの協力隊関係者が、 「世界で一番辛いカレーはスリランカカレーですよ。とにかく、口、胃、肛門、と3度辛いですから」 と、笑いながら自慢げに話すのを少しだけ煙たく聞きながら、一人部屋に戻り硬いベッドに横たわった。天井にはやもりがいて、「ケケケ」と不気味に鳴いていた。

一緒に日本を離れたスリランカ隊員が翌朝、レヌカホテル近くの食堂でシンハラ語を巧みに操り、エッグホッパーなんかを注文するのを見て、「すごいなあ。この人達はもう普通にここの人としゃべってるのかあ」その時、ディべヒ語を何も知らない自分に対して、不安感が急激に沸き起こってきていた。 

エアランカに乗り込み、安達調整員の引率でいよいよ2年間帰る事のできないマーレへと向かった。

飛行機の窓から眼下のインド洋を眺めながら、フルレ空港到着のため高度を下げ始めた時、 「陸地が見えないのだけれど、ちゃんと着陸できるのだろうか」同期の浅川・卓球隊員に無意識のうちに話しかけていた。あれからもう13年経つことになる。

マリンドライブは舗装されている所が一箇所もなく、雨が降ると中国製自転車でしぶきを上げながら、深い水たまりにゴムぞうりを履いた足をつけないよう、三角乗りのようなこぎ方でペコッ、ペコッとペダルをこいだものである。

学校は休校になる事もあったし、小さな子供達を迎えにくる父親達は、 「ほんとにもう・・」といった表情で自転車のサドルに子供を座らせ、自分はズボンのすそをたくし上げて水たまりの中へバサバサ分け入りながら自転車を押し家路につく、というのが当時よく見かけた風景であった。

中国製の自転車には夕方を過ぎると、「バッティ」と呼ばれる簡易ライトをつけなければ、「NSSに捕まえられる」と陸上クラブの仲間に脅かされていた。

このバッティが曲者で、なかなかいうことを聞いてくれなかった。電池(バッティリ)は新品なのにつかなかったり、ついていても次第に消え、こおれい!、バシっと叩くと復活したり。

「消えていてNSSに出くわした時は、バシバシ叩くふりをしたらいい」と対処の仕方を教えてくれたのもクラブの仲間であった。

派遣当時のオフィスは、イスドウーという名前のヘンベール地域にある一軒家であった。

 海に近かったため水はかなり塩っぽかったが、庭にはジャンブロールの木もあり、こじんまりと焚き火ができるスペースもあって、隊員にはおおむね好評であった。

 暇な午前中はオフィスに出向いて、マリアンと、キヒネ?、とたわいもない話をしたり、1週間ほど送れて届く朝日新聞を読んだりしてのんびり過ごしたものである。

このイスドウー前の家ではグラを売っていた。

任地到着後、最初のホテルは、62-1の軍司さんの案内でマリンドライブにあるビーチカフェだった。ドーニのおっちゃん達がムンドウ姿でわさわさいて、強烈な印象を受けた。

薄汚い店内では天井にファンカが熱気をかき回していて、小さい皿に乗ったさまざまなヘディカを、おっチャン達が両肘をテ-ブルにつき、カルサを飲みながら口にほうばっていた。

軍司さんはバジヤを、人差し指と中指で明らかに売り物に対しては強すぎる力でグイッと押し、暖かさを確かめていた。あまりの押し方に店のおじさんに思わず同情してしまったが、ドーニのベーベ達は同じような事をごく普通にしていた。

「これはバジヤって言います。バジヤっていうのは女の子のあそこっていう意味もありますから、気をつけてね」、と来たばっかりの我々に軍司さんは教えてくれた。

ふーん、そうなのかあ、と初めてのバジヤを口に運び、おー結構うまいやん、と食べた。

「もう一つ、こっちの丸いのがグラ。バジヤとグラはヘディカの代表みたいな存在ですよ」と、またまた軍司さんは皿を右手で取ってくれ、グラの硬さは店によってまちまちである、という事も教えてくれた。
ビーチカフェで初めて食べたグラは、そう硬くもなく、冷たかった。

イスドウー前のグラは私のお気に入りであった。

メッセンジャーボーイ(ディべヒ名=ピヨーン)のサッタールが、フラッとそこの家に入っていき、スリランカから届いた英字新聞なんかを敷いたプラスティックのボウルに、ばさっとグラを入れ買ってくるのだった。

そのグラ屋は普通の家で、なくなったらそれでおしまいという売り方のため、いつでも買えるというわけではなかったが、サッタールが頃合を見計らって買ってくるグラは、あたたかくホカホカで、ビーチカフェのものよりは小さく硬かったが、少しこげたような味がこおばしく旨かった。

「エーイ、サイトウ、キークラニー?」とマリアンがむこうから冗談混じりに話しかけてくるまでにはかなり時間が必要とされたけれど、オフィスで日ながこのグラをかじりながらマリアンの近くで過ごしたので、他の人達よりは早くうちとける事ができたのかもしれなかった。

日本に帰ってから、バジヤもグラも一度も食べていない。
日本のインドレストランで食べるサモサはバジヤに似ているとはいえ、やはりサモサであり、到底私の好きなバジヤの味ではない。

カーシとマスの入ったグラやバジヤはやはりモルディブ独特の食文化である。
マスリハがモルディブ料理の第1代表なのだろうけれど、ヘディカで朝昼兼用の食事を取り、あとは夜に食べるマスリハかガルディア(こっちが第1代表かな?)しかないモルディブ食文化において、このヘディカの存在はかなり大きい。

とにかく種類が多くて、何にしようかな、と考える余地がヘディカにはある。ここがいい。
聞く所によると、現在ヘディカは衛生面から政府の指導が入り、ショーケースみたいな中に入っていて、見て選んで注文するというような形で売られているようである。

二本指でグイッと押し、あったかさを確かめるといったような下品なおこないはもうないのだろう。
確かに清潔ではあろうけれど少し寂しい気もする。

マーレの時間の中で気に入って通ったホテルもいろいろ変化していった。
どこの店にも独特の味や感触があり、捨てがたいものがあった。
ドンケオカジュー、ロッターリハヤ、ビスキーミヤ、あかいぐるぐる(!?)、ビスガンドウ、ラッサン、カラーファニ、思い出の食べ物や飲み物はあげるときりがない。

風景は変わってしまったかもしれないけれど、いつか再びマーレを訪れた時、少しはにかんだような彼らの笑顔と、ヘディカの味だけは変わっていない気がしている。
# by saitoru1960 | 2002-07-08 15:30 | モルディブ

すわり小便の謎

モルディブのマーレ島で陸上競技を教え始めた頃、男子選手サイードは練習の途中で 「コーチ」と私にはずかしげに声をかけ、右手の小指を一本立てた。

私が「ハア?」という顔でサイードの顔を見ると、なんだか少ししなを作るようなナヨナヨ腰で、ちいさく「ヒースラ」という。

私はまだモルディブ語の語彙も少ない頃だったので、「ヒースラ」が何を意味するのかわからず、 「おいおい、男のくせに俺といい仲になりたいっちゅうのかよお?」 と少しげっそりした時、サイードは我慢しきれないように、すぐ横の波打ち際へとさっきのナヨナヨ腰&小股で小走りにかけていった。

平均海抜2mもないこの島は、周囲5kmをほとんど防波堤で囲んでいるため、練習場所の横も1mほどの防波堤を越えるとたちまち熱帯魚ウジョウジョの海になってしまう。

ランニングパンツ姿のサイードは1m防波堤を乗り越え、波打ち際まで急いでいくと、しゃがみこんで、ほっとしている。

「ヒースラ」は小便で、小指は小便を意味していたのだ。しかもすわり小便。

男は立ち小便、女はすわり小便、すわりながらの小便なんて日本男児たるもの死んでもすまじ、という確固たる文化(?)が日本にはある。(おおげさかな)

到底受け入れがたいサイードの行為に、「それはだめだろう!」と言うこともなく後ろ姿を見つめていたが、サイードは波を左手ですくい、股間にひょいひょいとかけるのであった。

紙を使わないモルディブのトイレ事情は、ひたすら水。

そして、イスラム教徒の彼らはお祈りの時には日本人以上に身を清める。

基本的に1日5回のお祈りをする彼らは、手、腕(ひじあたりまで)、足の指、脚(すねあたりまで)、顔、鼻(入口あたりも)、耳たぶ、口をゆすぐ、なんかまできっちりきれいにしてからお祈りをするのである。

私が知らないだけで、肛門もその都度キレイにしているのかもしれないが、清潔好きなモルディブ人の座り小便の謎もそのあたりにあるのかもしれなかった。
# by saitoru1960 | 2002-06-24 15:28 | モルディブ

カタカナ英語でもいいのだ

以前勤めていた高校で、3年生を卒業させた後の3月、学年団の3年間を慰労してと銘打ち、シンガポールに2泊3日で旅に出た。

中華料理店に入りワイワイ騒いで昼食をとっていた時、英語の先生がウエイトレスのオネエさんを呼んで、

「ここではディナーショーをしているみたいだけれど、値段はいくら位するの?」

と、英語で尋ねた。

「ンーー???、ウエイトアモーメントプリーズ(ちょっと待って下さい)」

とオネエさんは、英語わかんなくてごめんね、というようなスマナ顔で、決まり文句だけ残し英語のわかる人を探しに行った。

そうか、シンガポールは第2公用語として英語を使っているとか言われたりするけれど、観光客相手の場所でこんなこともあるんだな、と少しホッとし、英語がわかる人がくるのをしばし待っていた。

そこへ年の頃なら40前半、女中頭とおぼしきキリリとしたチャイナドレスの女性がやって来た。

英語教師が再び、巻き舌の正統派(?)英語で同じ質問をし、それにチャイナドレスの女中頭が答えた時、私は目が点になり、あごが一瞬前に伸びた。

「アイ キャント アンダースタンド ジャパニーズ。(私は日本語が分かりません)プリーズ スピーク イングリッシュ(すみませんが英語で話して下さい)」

女中頭の話す英語は、アジア各地で通じる母音の発音バリバリの、簡単に言うとカタカナ棒読みのアジア英語。

その英語教師は、聞き取りにくかったのか、

「エッ?どういうこと?」

とまたまた正統派英語で質問。すると、やはりチャイナドレスの女中頭は

「わたし、日本語がわかんないの。ごめんね」と返してきた。

英語教師はあきらかに狼狽していて立ち直るのに時間がかかりそうであった。

笑ってしまった。

言葉は道具なので相手に伝わらなければ意味をなさない。正統派であろうが、カタカナであろうが関係ないのだ。

アジア旅の面白さはこのあたりにもある。
# by saitoru1960 | 2002-05-10 15:26 | アジア

心動かされたことを忘れぬように


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